皆さんは『ブルージャイアント』という作品を知っていますか?
世界一のジャズプレーヤーを目指す宮本大を中心に、才能、努力、挫折、仲間との出会いを描いた石塚真一さんの音楽漫画です。
かなり評価の高い作品なのに、検索すると『ブルージャイアント』がひどい、事故が納得できない、最終巻がつらい、映画のCGが気になるといった言葉まで出てくるので、未読・未視聴だと「そんなに問題のある作品なの?」と不安になりますよね。
また、検索キーワードの取得条件によっては、ブラックフリーザの強さ、戦闘力、悟空、ベジータ、身勝手の極意、我儘の極意、ビルス、悟飯ビーストなど『ドラゴンボール超』側の関連語まで混ざる場合がありますが、これらは『ブルージャイアント』とは無関係なので切り分けて考える必要があります。
そこで今回は、漫画と劇場アニメの両方を映像オタク目線で見ながら、なぜここまで心を動かす作品なのに「ひどい」という感想まで生まれるのかを、物語の構造、演奏演出、CG、声の芝居まで分解して考えていきます。
- 漫画がひどいと言われる主な原因
- 終盤の事故と結末への賛否
- 映画版のCGや原作改変の評価
- 音楽や声優を含めた作品の魅力
『ブルージャイアント』ひどい理由
まず漫画版から見ていきます。
『BLUE GIANT』は全10巻の第一シリーズを通して宮本大たちの青春を描きますが、検索で「ひどい」と言われている最大のポイントは、作品全体の品質というより終盤に置かれた出来事への感情的な反発です。
むしろ作品を好きになった人ほど、その展開を受け入れにくい。
ここが普通の低評価作品とはかなり違うところなんすよね。
ポイント
『ブルージャイアント』のひどいという評価には、作品がつまらないという意味だけでなく、好きだからこそ展開がつらすぎるという意味もかなり含まれています。
雪祈の事故
漫画版を語るうえで避けられないのが、物語終盤で雪祈を襲う大きな出来事です。
具体的な状況は重要なネタバレになるためここでは伏せますが、この展開こそ「ブルージャイアントはひどい」と検索される最大級の理由だと僕は感じています。
それまでの物語では、大、雪祈、玉田という三人がそれぞれ異なる位置からジャズと向き合っています。
大は圧倒的な情熱で前へ進み、雪祈は技術と自負を持って高い場所を目指し、玉田はほぼゼロから演奏者として食らいついていく。
つまり三人が同じ速度で成長しているわけではありません。
それでも少しずつ歯車が噛み合っていき、「ようやくここからだ」と感じさせる地点まで読者を連れていく。
そこで大きく流れを変える出来事が発生するわけです。
ぶっちゃけ、初読時に「ここでそれをやるの?」となる人がいるのはめちゃくちゃ理解できます。
積み上げてきた時間が大きいほど、それを揺さぶる展開は理不尽に感じやすいんですよね。
ただ、僕はこの理不尽さ自体が『BLUE GIANT』のテーマから完全に外れているとは思いません。
ジャズという音楽は、決められた正解を正確になぞるだけでは成立せず、その瞬間に起きたことへ反応して音を続けていきます。
人生も同じで、努力した時間と結果が必ず比例するとは限りません。
Z世代って、SNSの数字や資格、就活の実績みたいに成果を可視化することに慣れているじゃないですか。
僕自身も「これだけ時間を使ったんだから何か返ってきてほしい」と普通に思います。
でも現実は、積み上げた直後に予定外のことが起きる。
この作品はそこを綺麗な成功物語だけで終わらせない。
だから納得できない。
そして、その納得できなさまで含めて妙に現実っぽいんすよ。
最終巻の展開
最終巻についても評価はかなり割れます。
ここで注意したいのは、第一シリーズ『BLUE GIANT』の最終巻が、宮本大という人物の物語そのものを完全に終わらせる最終地点ではないことです。
シリーズとしてはその後も舞台を変えながら続いていくので、10巻だけを「主人公の人生すべての最終回」として読むと少し印象が変わります。
とはいえ、一つの青春編として見るなら、かなり感情を揺らす締め方です。
特に気になるのが、読者の中で生まれた期待と作者が選んだ着地点のズレ。
王道の青春漫画なら、努力を重ねた三人が大舞台へ向かい、その成果を最大級のカタルシスとして見せる構造を想像します。
ところが『BLUE GIANT』は、単純な成功の気持ちよさだけに着地しません。
それまで「前へ進めば何かが開ける」と信じさせてきた漫画だからこそ、そのテンションのまま読んでいると急ブレーキを踏まれたように感じます。
あえて苦言を呈するなら
終盤に大きな出来事を置くことで感情の振幅は最大化されていますが、それまでの成長ドラマをもっと長く味わいたかった読者には、展開そのものがドラマを成立させるための装置に見える瞬間があります。
ここは僕も完全に「作者の狙いだから問題なし」とは言いたくないです。
物語のテーマに合っていることと、読者が気持ちよく受け入れられることは別問題だからです。
ただ、そのザラつきが何年経っても語られる原因にもなっています。
読み終えた瞬間に全部綺麗に消化できる漫画より、「あれで良かったのか」と後から何度も考えてしまう。
ある意味、ジャズの演奏が終わったあとに残る余韻みたいな最終巻なんですよね。
伏線と事故
事故について調べていると、「伏線はあったのか」という疑問もよく出てきます。
ここはかなり難しいところで、僕は典型的なミステリー作品のように「前半のこの描写が、後半の出来事を明確に予告していた」と読む作品ではないと思っています。
むしろ大切なのは事件そのものの予告ではなく、青春には終わりがあり、同じメンバーで同じ場所にいられる時間は永遠ではないという空気が以前から流れていることです。
バンドものって、観客側は無意識に「この三人がずっと一緒に活動してほしい」と思ってしまいます。
でも現実のバンドでも、進学、就職、方向性の違い、生活環境の変化などで関係は簡単に変わります。
高校の友達だって同じです。
卒業前は毎日会っていたのに、数年後には年に一度連絡するかどうかという関係になったりする。
青春の恐ろしさって、終わってから「あの時間は期間限定だった」と気づくところなんすよね。
『BLUE GIANT』はその儚さを、かなり激しい形で突きつけてきます。
そのため、「伏線がないから唐突」と感じる意見も理解できますし、「人生の不意打ちとして描いているから予告しすぎない方がいい」という見方も成立します。
僕は後者寄りです。
もし分かりやすい不吉なカットや意味深な台詞を何度も置いていたら、読者はその瞬間を待ちながらページをめくることになります。
それでは日常を突然切断する衝撃が薄れてしまう。
だから映画的に言えば、伏線を派手にパンニングして見せるのではなく、観客が別の方向を見ているところへ出来事を入れる演出に近いです。
ただし、唐突さが苦手な人にまで「これがリアルだから理解しろ」と押しつける必要もありません。
ショックを受けたなら、そのショック自体がこの作品を真剣に読んでいた証拠でもあります。
漫画の結末
漫画の結末を細かく説明すると初見の楽しみを大きく奪ってしまうため、具体的な場面には踏み込みません。
ただ、第一シリーズの着地点を考えるうえで大切なのは、これは「夢を達成したか失敗したか」を判定する物語ではないということです。
宮本大は最初から世界一のジャズプレーヤーを目指しています。
普通なら、この宣言そのものが最終ゴールになります。
ところが『BLUE GIANT』で面白いのは、ゴールよりも「なぜそこまで吹き続けられるのか」にカメラを向け続けているところです。
大は合理的に成功確率を計算して進んでいるわけではありません。
むしろ客観的に見れば無茶なことも多い。
それでも吹く。
この異常な継続そのものが主人公の個性になっています。
だから第一シリーズの結末も、物語を閉じるための終止符というより、次の小節へ入る直前のブレスに近いです。
『BLUE GIANT』というタイトルの本質は、世界一になった瞬間ではなく、世界一になると信じて動き続ける姿にあると僕は読んでいます。
この考え方って、現実の仕事にも意外と刺さります。
僕らは「内定したら」「昇進したら」「フォロワーが増えたら」と到達地点ばかり設定しがちです。
でも到達した瞬間からまた次の日が始まる。
作品を何百本見ても、「これで映画を全部理解した」なんて日は来ません。
むしろ一本見るたびに知らない表現が出てきます。
大の旅もそれと似ています。
なので結末の爽快感だけを期待するとモヤモヤする一方、人生の途中を描いた物語として読むとかなり納得しやすくなります。
ご都合主義
否定的な感想の中には、「話が都合よく進みすぎる」という声もあります。
これは分かる部分があります。
大は圧倒的な熱量で行動し、その行動によって人と出会い、新しい機会へつながっていきます。
物語なので当然ではありますが、現実で同じことをやったからといって、毎回これほどドラマチックな出会いが発生するわけではありません。
ただ、僕が面白いと思うのは、『BLUE GIANT』が幸運だけで主人公を運んでいくタイプの作品ではないことです。
チャンスが来る前に、かなり地味な反復が描かれています。
一人で吹く。
失敗する。
また吹く。
評価されなくても続ける。
漫画として派手なのは人との出会いやステージですが、その前提にあるのは毎日の反復です。
だから僕は「都合がいい」というより、ドラマになる瞬間だけを圧縮して見せている漫画だと感じます。
映画で二時間の人生を描く時、毎日の食事や睡眠を全部撮らないのと同じです。
とはいえ、大の迷いがかなり少ないため、主人公に自分を重ねるタイプの読者には距離を感じるかもしれません。
僕なんてブログ一本書くだけでも「この方向でいいのか」と普通に迷いますから、大の一直線さを見ると「いやメンタルどうなってんねん」と思います笑。
でも、だからこそ玉田や雪祈が必要なんですよね。
彼らは大ほど単純に前へ行けません。
才能へのコンプレックス、経験の差、周囲からの評価、自分自身への疑いがある。
その二人を配置することで、大だけでは表現できない人間らしい揺れを補っています。
ご都合主義という批判は完全に的外れではありません。
ただ、その一点だけで読むと、三人の役割分担という作品設計を取りこぼしてしまうと思います。
『ブルージャイアント』ひどい映画版
映画版になると、「ひどい」の意味がかなり変わります。
漫画では終盤の物語展開が議論になりやすいのに対し、劇場アニメではCG、原作からの圧縮、俳優による声の芝居、ジャズそのものへの好みが主な論点です。
一方で、演奏シーンと音響については絶賛する感想も非常に目立ちます。
映像には不満があるのに音楽では泣いた、脚本にツッコミながらライブでは圧倒された、みたいなかなり特殊な評価が成立する映画なんすよ。
| 評価ポイント | 気になる意見 | 評価される部分 |
|---|---|---|
| 演奏CG | 人物の質感に違和感 | カメラの自由度と運動量 |
| 物語 | 原作からの省略が多い | 映画としてテンポが速い |
| 声の芝居 | 俳優声優への違和感 | 人物の素朴さが出ている |
| 音楽 | ジャズの好みが分かれる | 演奏の迫力と音響体験 |
CGがひどい
映画版で最も分かりやすく批判されているのが、演奏シーンの3DCGです。
ここは僕も「全部最高だから文句なし」とは言えません。
手描き中心のカットから3DCG主体の演奏へ切り替わる瞬間には、人物の輪郭、表情、身体の質感が変化して見える場面があります。
特に人間の顔は厄介です。
少し目の動きが硬かったり、口元と頬の連動が足りなかったりするだけで、人間はすぐ「人形っぽい」と感じます。
楽器を弾く指や腕の動きがリアルでも、顔が一瞬止まると違和感の方へ視線を持っていかれる。
これが「CGがひどい」という感想につながった部分はあると思います。
ただし、そこでCG全体を失敗扱いすると、この映画のかなり面白いところまで捨てることになります。
ライブシーンでは、実写のカメラでは難しい角度から楽器へ寄り、人物の周囲を回り込み、演奏者同士の視線をつなぎながら空間を移動します。
演奏を正面から撮影するだけではなく、音そのものが客席を走り回っているような仮想カメラになっているんですよ。
公式の制作資料でも、演奏のリアリティを出すために参考映像やモーションキャプチャーなどを使い、カットごとに異なる方法を組み合わせてライブシーンを制作したことが説明されています。
つまり3DCGは単なる制作効率のためではなく、演奏者の身体運動を画面へ持ち込むための手段でもあります。
僕が特に好きなのは、ソロへ入った瞬間に現実のライブハウス的な空間感覚から離れ、色やカメラの移動が感情側へ振れるところです。
ここでは写実性より「この人物には今、音がどう見えているか」を優先している。
なので評価としては、人物CGの質感に粗さを感じる場面はある。
でも演奏を静止画ではなく運動として見せる発想はめちゃくちゃ面白い。
僕はこの二つを同時に認めるのが一番フェアだと思っています。
原作との違い
映画版は原作漫画の内容を、そのまま一コマずつ映像化した作品ではありません。
劇場作品には上映時間があります。
漫画なら読者が好きな速度でページをめくれますが、映画は監督が観客の時間を握ります。
そのためキャラクター同士の関係や細かなエピソードの一部は圧縮され、映画として一本の流れになるよう再構成されています。
原作ファンからすると、ここがかなり悩ましい。
原作で好きだった何気ない会話や、一人の人物を理解するために必要だった積み重ねが短くなると、「結果だけ見せられた」と感じることがあります。
特に玉田の成長って、本来は時間が重要なんですよ。
初心者がいきなり演奏の場へ飛び込み、何度も自分との差を思い知らされ、それでも続ける。
この泥臭さは長く読むほど効いてきます。
映画では限られた時間で三人の物語とライブを成立させないといけないので、どうしても過程が高速になります。
僕はここに関しては、原作を知っている人の「もっと見たかった」という不満にかなり同意します。
ただし、映画版はその代わりに音楽へ時間を渡しています。
普通の漫画原作映画なら、演奏を短くしてストーリーを詰める選択もできたはずです。
でも『BLUE GIANT』は逆。
人物説明を削ってでもライブを長く体験させる方向へ舵を切っています。
ここが映画版の覚悟だと思うんすよね。
原作者の石塚真一さんが映画という形式にこだわった背景にも、大音量でジャズを体感してほしいという意図があります。
だから原作と同じ情報量を求めるなら漫画。
音を浴びる体験を求めるなら映画。
どちらかを完全版として扱うより、媒体ごとに役割が違う作品として見る方がしっくりきます。
声優の違和感
映画では宮本大を山田裕貴さん、沢辺雪祈を間宮祥太朗さん、玉田俊二を岡山天音さんが演じています。
いわゆる専業声優だけで固めたキャスティングではないため、公開時から声への不安や違和感を挙げる人もいました。
| キャラクター | 声の出演 | 僕が感じた方向性 |
|---|---|---|
| 宮本大 | 山田裕貴 | 朴訥さと直進する熱量 |
| 沢辺雪祈 | 間宮祥太朗 | 自信と繊細さの同居 |
| 玉田俊二 | 岡山天音 | 等身大の不器用さ |
個人的には、最初の数分だけ聞くと「俳優の声だな」と感じる瞬間はありました。
アニメ的な発声に慣れている人ほどそう感じると思います。
専業声優の芝居では、マイク前でも表情が見えるように子音や息を精密に組み立てるケースがあります。
一方、本作はかなり生活感のある発声です。
特に大は、主人公なのに喋り方までヒーローっぽく作り込みすぎない。
この素朴さが、個人的には途中から効いてきました。
大ってサックスを吹く時は異常なエネルギーを放つのに、日常会話では意外と普通の青年なんですよね。
だから声まで常時100%の主人公ボイスにすると、演奏時との落差がなくなります。
雪祈も同じで、表面は余裕があるのに内側には焦りがある。
間宮祥太朗さんの少し距離を取った発声は、その二重性と相性がいいです。
そして玉田は、上手い演奏者の集団へ突然入った普通の青年というポジションなので、声まで完成されすぎていない方がむしろキャラクターに合う。
もちろん好みはあります。
アニメ声優らしい滑舌や演技密度を求める人なら、物足りなく感じても不思議ではありません。
ただ「俳優だからダメ」と一括りにするより、日常会話と演奏の熱量差を作るキャスティングとして見ると印象が変わると思います。
ジャズの評価
『BLUE GIANT』という映画で最終的に一番大きいのは、やっぱりジャズです。
ここが刺さらなければ、どれだけ映像を語っても評価は上がりにくいです。
逆にストーリーやCGに多少引っかかっても、演奏に飲み込まれた人は高評価になりやすい。
実際、ネット上でも「音楽は素晴らしい」「演奏で圧倒された」という感想が目立つ一方、「音楽自体が好みではなかった」「思っていたジャズと違った」という声もあります。
これは映画としてかなり面白い現象です。
なぜなら、音楽映画なのに音楽を背景へ逃がしていないからです。
普通の青春映画なら、曲は感情を補助するために流れます。
でも『BLUE GIANT』では逆転する瞬間があります。
人物やストーリーが音楽を説明するために存在しているように見える。
セリフで「今すごい演奏をしています」と説明するのではなく、演奏時間そのものを観客へ渡して判断させる。
これ、かなり勇気が必要です。
ジャズに興味がない人が退屈する可能性もあるからです。
映画音楽は上原ひろみさんが担当し、大のサックスは馬場智章さん、玉田のドラムは石若駿さんが演奏しています。
演奏の説得力をキャラクターの設定だけで作らず、実際のミュージシャンの音へ預けている。
だから映像の線が多少気になっても、音だけは異常に生々しい。
サックスの息、ピアノの打鍵、ドラムのアタックが同時に走った瞬間、画面より音の方が先に身体へ来るんですよ。
映画館で評価が上がりやすかった理由
『BLUE GIANT』は音量や低域、楽器同士の位置関係まで含めてライブ感を作る作品です。
そのため、スマートフォンや小型スピーカーで見る場合と、映画館や音響環境の整った場所では体験の印象が変わりやすい作品だと感じます。
僕はこれを「ジャズを題材にした青春映画」より、青春ドラマの形を借りたライブ映画として見た方が本質に近いと思っています。
映画の評判
映画版の評判を見ていると、かなり極端な反応が共存しています。
ある人は映像やCG、脚本への不満を挙げる。
別の人は「近年でも特に熱くなった映画」と絶賛する。
さらに面白いのが、同じ人の中で両方の感情が成立するケースです。
映像にはツッコミたい。
でも泣いた。
脚本には納得できない。
でも演奏は忘れられない。
普通なら欠点を挙げれば総合評価も下がっていきます。
ところが『BLUE GIANT』は、減点したはずなのに最後のライブで全部ひっくり返される人がいる。
これがこの映画の変な魅力です。
AniListの漫画版平均評価も84点という高い水準になっていますが、こうした評価数値は利用者や集計時期によって変化するため、あくまで一般的な目安として見る必要があります。
ネットの点数も同じです。
数字だけを見て「名作」「駄作」と判定するより、自分が何を映画に求めているのかを先に考えた方がいいです。
キャラクター同士の細かな積み重ねをじっくり味わいたいなら、漫画版の方が入りやすい。
逆に、言葉では説明できない演奏の熱を身体で受けたいなら映画版です。
僕は年間かなりの本数を見るので、映像作品を採点表みたいに見てしまう瞬間があります。
作画何点、脚本何点、演出何点みたいな感じですね。
でも『BLUE GIANT』を見ていると、そういう採点が途中でどうでもよくなる瞬間がある。
一個の音が鳴った瞬間に、それまで考えていた技術的な欠点を忘れる。
映画って本来そういう乱暴な力も持っていたよな、と改めて思わされました。
だから低評価の意見を否定する気はないです。
CGで冷めた人も正しいし、原作の省略が嫌だった人も正しい。
それでも演奏で全部持っていかれた人も正しい。
評価が割れていること自体が、この映画がかなり尖った選択をした証拠なんだと思います。
『ブルージャイアント』ひどい?
ここまで見てきた結論として、僕は『ブルージャイアント』を作品全体として「ひどい」と片づけるのはかなりもったいないと思っています。
ただし、「ひどいと言われる理由が一切分からない」という作品でもありません。
- 漫画終盤の出来事があまりにもつらい
- 最終巻の展開に唐突さを感じる人がいる
- 主人公周辺の展開をご都合主義と受け取る人もいる
- 映画版の3DCGには質感の違和感が残る場面がある
- 映画では原作の細かな過程がかなり圧縮されている
- 俳優による声の芝居は好みが分かれる
- ジャズそのものが好みに合わない可能性がある
これだけ見ると欠点だらけに見えます。
でも、それ以上に面白いのが、これらの不満を抱えたまま「それでも好き」と言える人が多いことです。
僕にとって『BLUE GIANT』の魅力は、完成度の高さだけではありません。
むしろ不器用です。
宮本大自身もそうですが、この作品はスマートに勝ち続ける物語ではない。
汗をかき、恥をかき、予定が崩れ、それでも次の音を出す。
映画版も同じで、CGに課題を感じる場面があっても、カメラを動かし、音を鳴らし、とにかく観客をライブの中へ放り込もうとします。
その必死さが作品そのものと妙にリンクしているんですよね。
特に僕が好きなのは、才能だけを神格化しないところです。
大には大の才能があります。
雪祈には雪祈の積み重ねがあります。
そして玉田のように、周囲との差を痛感しながら参加する人間もいる。
社会に出ると、この玉田ポジションになる瞬間ってかなりあります。
自分より経験のある人ばかりの職場に入ったり、SNSで同世代の成功を見たりして、「今から始めても遅いんじゃないか」と感じる。
僕も映像について文章を書き始めた頃、専門知識のある人の記事を見るたびに普通に凹みました。
でも結局、自分が今日一本見ること、自分なりの言葉で一本書くことしかできない。
そういう地味な反復がいつか自分の音になる。
『BLUE GIANT』を見ていると、その当たり前のことをかなり大音量で思い出させてくれます。
僕の結論
『ブルージャイアント』がひどいと言われる最大の原因は、作品の完成度そのものより、読者が愛着を持った人物へ容赦なく現実をぶつける物語と、映画版で採用された3DCGや大胆な圧縮表現への好みの差です。
一方、音楽、ライブ演出、三人の青春にハマった人にとっては、その欠点を含めても忘れにくい作品になります。
「ひどい」という検索候補だけを見て避けるより、漫画なら人物の積み重ね、映画なら演奏と音響という、それぞれ別の魅力を体験してから判断してほしい作品です。
なお、作品の販売状況、配信状況、商品仕様などは時期によって変更される場合があります。
正確な情報は公式サイトをご確認ください。
また、購入費用や契約など金銭に関する重要な判断が必要な場合は各サービスの最新条件を確認し、必要に応じて最終的な判断は専門家にご相談ください。
アニメ・映画が大好きで毎日色んな作品を見ています。その中で自分が良い!と思った作品を多くの人に見てもらいたいです。そのために、その作品のどこが面白いのか、レビューや考察などの記事を書いています。
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