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『聲の形』はひどい?胸糞・気持ち悪い理由を解説

劇場アニメ

皆さんは『聲の形』という作品について知っていますか?、検索してみると「ひどい」「胸糞」「気持ち悪い」「意味不明」といった、かなり刺激の強い言葉が並びます。

これから初めて観ようとしている人なら、「そんなに後味が悪い作品なの?」「いじめを美談にしているの?」と不安になるのも当然です。

一方で、普段ネットで語られる作品には、ブラックフリーザの強さランキングやビルスとの比較、悟飯ビースト、悟空、ベジータのように単純な強弱で答えを出せるテーマもありますが、『聲の形』はまったく別物です。

なぜなら、本作が突きつけてくるのは誰が正しくて誰が悪いかという答えではなく、人間同士が理解し合おうとしても簡単には伝わらないという、かなり面倒くさい現実そのものだからです。

今回は年間数百本のアニメや映画を観ている僕の視点から、なぜ『聲の形』がひどいと言われるのかを、キャラクターへの好き嫌いだけではなく、山田尚子監督のカメラワークや音響、人物配置まで含めて掘っていきます。

  • 『聲の形』が胸糞と言われる理由
  • 気持ち悪い・意味不明と感じる原因
  • 川井やいじめ描写が荒れる理由
  • 作品が本当に描いているテーマ

『聲の形』はひどい?不快とされる理由

まず押さえておきたいのは、『聲の形』を観て不快になること自体は全然おかしくないということです。

むしろ本作は、視聴者に気持ちよく感動して帰ってもらうだけの映画ではありません。

いじめ、罪悪感、責任転嫁、自己嫌悪、コミュニケーションの失敗といった、人間関係でなるべく見たくない部分を真正面から置いてきます。

だから「名作なんだから感動しなきゃ」と構える必要はないんすよ。

嫌悪感まで含めて視聴者を作品の中へ引きずり込む設計になっているところが、『聲の形』の厄介さであり面白さでもあります。

胸糞な理由

『聲の形』を観て最初に「うわ、胸糞だな……」となる最大の理由は、いじめそのもの以上に、教室という集団が見せる責任の流動性だと思っています。

ひとりが突然すべてを始めるのではなく、笑う人、見ている人、面白がる人、止めない人、空気に合わせる人が少しずつ状況を作っていく。

そして問題が大きくなった瞬間、それまで同じ空気の中にいた人たちが「自分は関係ありません」という顔をする。

ここ、マジで嫌なんすよ。

でも嫌だからこそ妙にリアルです。

学校に限らず、仕事でもグループLINEでもSNSでも、空気が悪くなった瞬間に昨日まで笑っていた人が急に距離を取ることってあります。

『聲の形』は、その醜さを悪役一人へ押し込めないんですよね。

普通の作品なら「こいつが悪い」と指差せるキャラクターを用意すると、視聴者は安心できます。

でも本作では、誰かを責めれば終わる構造になっていません。

石田将也の行為が悪かったことは前提としても、それを見ていた周囲、大人、クラスメイト、それぞれの弱さまで画面に残します。

胸糞感の正体は、悪人の存在ではなく「集団の中では誰でも加害側に滑る可能性がある」という怖さです。

僕がこの映画を観返すたびにしんどくなるのもそこです。

明確な怪物を倒せば終わる作品ではない。

画面に映っている嫌な部分が、普通に自分の生活にも存在してしまう。

だからエンドロールまで観ても、爽快な勝利ではなく微妙な棘が残るんですよ。

気持ち悪い理由

検索でかなり目立つのが、『聲の形』は気持ち悪いという反応です。

特に引っかかりやすいのが、過去に加害側だった人物と被害を受けた人物が再び関係を作っていくこと。

「そんな関係になるわけない」「都合が良すぎる」と感じる人がいるのも分かります。

ぶっちゃけ、ここを恋愛ドラマとしてだけ見ると相当危ういです。

加害者が反省したから被害者が許し、最終的に好意を向けてくれるという構図に見えた瞬間、一気に気持ち悪く感じる。

ただ僕は、本作が描いているのは「許してもらえたから贖罪完了」という話ではないと見ています。

むしろ将也は、許されたかどうか以前に、ずっと自分自身との付き合い方が分からない人物として描かれています。

相手の気持ちを理解しているつもりになり、勝手に結論を出し、自分で自分を裁く。

この独り相撲っぷりがめちゃくちゃ人間っぽい。

山田尚子監督の画面も、二人をロマンチックな男女として一直線に撮るより、顔を見られない、距離がある、視線が合わないという瞬間を何度も積み重ねます。

この映画では「好き」という感情より先に「相手を見ること」が課題として置かれているんですよ。

そう考えると、恋愛のご褒美として関係が進んでいるわけではありません。

ただし、過去にいじめられた経験がある人がこの関係性を受け入れられないことも当然あります。

作品への評価と、自分が許せるかどうかは別問題です。

意味不明な点

『聲の形』には「意味不明」という感想もあります。

その原因の一つは、映画が登場人物の感情を全部セリフで説明してくれないことです。

普通の青春映画なら「俺はあの時こう思っていた」「本当はこうしたかった」と本人が言えば、一発で意味が通ります。

でも『聲の形』は、その説明をかなり削っています。

視線、手、足元、呼吸、沈黙、距離で見せる。

山田尚子監督作品でよく感じるのですが、顔のアップより足元を見せるカットがやたら雄弁なんすよね。

足が止まる。

一歩だけ近づく。

逃げるようにフレームから外れる。

セリフにしたら一行で済む感情を、身体の動きへ分散させています。

なのでスマホを触りながら流し見すると、「なんで急にこうなった?」となりやすい作品です。

さらに長編漫画を劇場映画へ圧縮しているため、一部の人物については「いつの間にそんな関係になった?」と感じる場所もあります。

ここは映画版の弱点として普通にあると思います。

全部を演出の深さで片づけるのは違う。

意図的に説明を省いた部分と、上映時間の都合で説明が足りなくなった部分の両方があると見るのがフェアです。

いじめの描写

『聲の形』を語るうえで避けて通れないのが、いじめの描写です。

ただ、本作を「いじめ問題を解決する映画」と見ると、若干ズレると思っています。

もちろん題材として非常に重いです。

しかし物語全体で繰り返されるのは、聴覚障害そのものより、相手の気持ちを勝手に決めつける行為なんですよ。

将也は相手を理解できない。

硝子も自分の気持ちを十分に表せない。

周囲の人間も、自分が見たい形で他人を解釈する。

だから会話がずれる。

さらに怖いのが、子どもたちだけではなく大人も完璧な調整役として描かれないことです。

現実でも「大人が介入すれば全部解決」というほど簡単ではありません。

ただし、だからといって現実のいじめを当事者同士の努力だけで解決すべきという話ではないです。

現実のいじめや差別で困っている場合は、作品内の行動をそのまま参考にせず、学校、保護者、職場の相談窓口など信頼できる第三者へ相談してください。

個別の状況に関する最終的な判断は、必要に応じて専門家にご相談ください。

映像面では、将也が他者との関係を遮断している感覚を視覚記号へ置き換える演出がかなり強烈です。

単に「主人公は孤独です」とナレーションで言わない。

人の顔をまともに見られない心理そのものを画面の情報量として制限する。

この主観映像の作り方は本当にうまい。

京都アニメーションの画面設計については、京都アニメーションの作画が評価される理由でも詳しく触れています。

自殺描写の重さ

『聲の形』が人によってはかなりきつい作品になる理由として、自死を連想させるテーマや描写も外せません。

重要な場面の詳細には触れませんが、本作では「自分が消えれば周囲が楽になるのではないか」という危険な自己否定が人物の内側に存在しています。

ここで個人的にすごいと思うのは、この感情を一人だけの特殊な問題にしないところです。

形は違っても、複数の人物が「自分は誰かにとって邪魔なのではないか」「自分には価値がないのではないか」という思考へ沈んでいく。

つまり作品内での聴覚障害は唯一の苦しみではありません。

孤立すること。

拒絶されること。

過去を消せないこと。

自分自身を嫌いになること。

それらが違う形で重なっています。

なので、単純に「命の大切さを伝える感動作」とまとめると薄いんすよ。

僕にはむしろ、人間が孤立すると、自分について考える声だけが異常に大きくなってしまう怖さを描いている映画に見えます。

就活や仕事でも、失敗が続いて一人で考え込んでいると、「自分だけ何もできていない」みたいな極端な結論へ行くことがあります。

でも実際は、視界が狭くなっているだけだったりする。

本作の画面が徐々に他者との接続を取り戻していく感覚は、この心理とかなりリンクしています。

このテーマに強く反応して気分が落ち込む場合は、無理に視聴を続ける必要はありません。

現実の心身の状態に関する判断は作品ではなく、医療機関など適切な専門家へご相談ください。

川井を許すな

『聲の形』を語るネットの感想で、ほぼ名物状態になっているのが川井みきへの反応です。

川井を許すな、川井が一番嫌い、というレベルで怒りを向ける人も珍しくありません。

分かる。

めっちゃ分かります笑。

植野のように攻撃性が表へ出る人物は、「この人はこういう人だ」と把握しやすいんですよ。

一方、川井は自分を正しい側に置いたまま行動する。

ここが視聴者の神経を逆撫でする。

しかも川井を演じる潘めぐみさんの声が絶妙です。

露骨な悪役ボイスにはしない。

本人の中では本当に自分を悪人だと思っていないように聞こえる。

だから余計に刺さります。

僕は川井を「作品内でもっとも現実で遭遇したくないキャラクター」の一人だと思っています。

ただ、だからこそ必要なんすよ。

全員が最後に反省して「私も悪かった」と言い始めたら、それこそ作り物っぽい。

現実には、自分が人を傷つけた事実を最後まで自分の物語へ取り込めない人もいます。

むしろ自分を被害者として記憶し直す人すらいる。

川井は人間の自己正当化という機能を擬人化したようなキャラクターなんですよね。

ただしキャラクターへの批判と、声優や制作関係者への攻撃は当然別物です。

嫌われるほど生々しく成立している時点で、キャラクター造形としてはかなり成功していると思います。

『聲の形』がひどいだけではない理由

ここまで読むと、『聲の形』ってずっと嫌な映画なのでは?と思うかもしれません。

でも僕は、この作品を「ひどい」で切ってしまうのはかなりもったいないと思っています。

なぜなら、不快な題材を描くだけなら簡単ですが、本作は音、視線、距離、画面の焦点まで使って「他人とつながる難しさ」を映像へ変換しているからです。

映画版は大今良時さんの原作を、山田尚子監督、脚本の吉田玲子さん、京都アニメーションという布陣で映像化した作品です。

(出典:映画『聲の形』公式サイト)

感動ポルノ説

『聲の形』に対する批判の中でもかなり重い言葉が、感動ポルノではないかというものです。

障害のある人物を登場させ、その苦境を見せることで観客を泣かせているだけではないか。

そう感じる人がいるのは理解できます。

題材そのものがセンシティブなので、作り方を少し間違えれば簡単にそう見えます。

ただ僕は、映画を観ていて硝子が「かわいそうな聴覚障害者」という一枚絵に固定されているとは感じませんでした。

むしろ硝子自身にも頑固さ、不器用さ、自己否定、相手の感情を勝手に引き受けてしまう癖があります。

完璧な聖人ではありません。

ここが大事です。

もし本当に観客を泣かせるためだけの装置なら、硝子をもっと分かりやすく善良な被害者として描いた方が効率がいい。

でも本作はそうしません。

将也も硝子も植野も川井も、みんな自分の視点からしか世界を見られない。

だから衝突します。

そして和解したように見えても、完全には理解し合えない。

『聲の形』のテーマは障害を乗り越えることより、「他人を完全に理解することなんてできない」という前提から関係を始め直すことにあると僕は見ています。

この点では、障害のある人物を扱った別の劇場アニメとの比較も面白いです。

『ジョゼと虎と魚たち』がひどいと言われる理由と読み比べると、同じように賛否が生まれる題材でも演出の方向性がかなり違うことが分かります。

伝えたいこと

では『聲の形』が伝えたいことは何なのか。

僕の答えはシンプルで、伝えることと伝わることは別物であるという話です。

この映画では、音声、手話、筆談、視線、表情など複数のコミュニケーション手段が登場します。

普通なら「手段があれば伝わる」と考えますよね。

ところが本作では、手段が存在していても気持ちは普通にすれ違います。

これ、現代のSNSと同じです。

LINEもDMも通話もある。

いつでも誰とでも連絡できる。

なのに人間関係の誤解は消えません。

むしろ既読ひとつで勝手に相手の感情を想像して病むことすらある。

伝達手段が増えれば相互理解が完成するわけじゃないんですよ。

『聲の形』というタイトルに「声」ではなく「聲」という字が使われているのも、この作品を象徴的に見せます。

重要なのは音そのものではなく、人が外へ出そうとしているものに形を与えること。

そのためには、喋る側だけではなく受け取る側も必要になります。

映像面で面白いのが、将也が他者を見ることを避けている時期と、人間の顔が画面の中で意味を持ち始める過程です。

物語が進むほど、「世界が変わった」というより、同じ世界を見る将也側の認知が変わったように感じられる。

この主観と客観の切り替えがめちゃくちゃうまい。

本作が描くコミュニケーションは「正しい言葉を使えば伝わる」という技術論ではなく、相手を見ようとする姿勢そのものです。

最後の手話

『聲の形』を観たあと、最後の手話の意味が気になって検索する人も多いと思います。

ここでは重要なネタバレを避けるため、具体的なやり取りや結末の説明は控えます。

僕が注目したいのは、あの場面が恋愛映画の「告白成功」のような分かりやすいゴールとして置かれていない点です。

本作では最初から最後まで、「相手の人生を全部分かってあげる」ことは不可能として描かれます。

だから終盤でも、突然すべてが解決したような万能の言葉は登場しません。

むしろ重要なのは、これからも相手と関係を続けようとする意思です。

言い換えるなら、完成ではなくスタート。

僕はここがかなり好きです。

普通の青春映画なら、クライマックスで感情を全部爆発させ、観客を泣かせ、その瞬間を最大音量で押してくるところです。

『聲の形』は逆に、手の動きや表情、間へ感情を預けます。

音を主題にした作品なのに、重要な感情ほど音声だけに頼らない。

この逆説が映像作品としてめちゃくちゃ美しいんすよ。

そして観客側にも解釈の余白が残る。

だから「あれは恋愛なの?」「友情なの?」と議論が続きます。

でも僕は、どちらか一語に決めなくてもいいと思っています。

人間関係って、付き合っている、友達、知人、みたいなタグだけでは説明できない期間が普通にあるじゃないですか。

その曖昧さを残しているから、映画が終わったあとも二人の人生が続いている感じがするんです。

原作との違い

映画版について「あのキャラが薄い」「展開が急」と感じたなら、かなりの部分は原作との尺の違いが関係しています。

連載版の原作漫画は全7巻。

それを一本の劇場映画へ圧縮しているため、当然ながらすべての人物や出来事を同じ密度では描けません。

特に脇役の家庭事情や過去、人間関係については、漫画を読むと映画とは受け取り方が変わる部分があります。

ここは映画単体の弱点でもあります。

映画を観ただけでは、人物によっては「なぜ急にそこまで感情が動いたんだ?」と感じる瞬間がある。

僕自身、初見時には数人のキャラクターについて「いや、もう半歩説明してくれ」と思いました。

ただし、映画版が単なる短縮版かというと全然違います。

原作の情報を削った代わりに、映像と音による主観表現へかなり振っています。

例えば被写界深度を浅くした画面。

周囲がぼやけ、ひとつの対象だけに焦点が乗ることで、人間が自分の見たいものしか見ていない感覚が視覚化されます。

牛尾憲輔さんの音楽も、感情を泣かせるために大げさに盛り上げるというより、人物の内側へ入り込むような鳴り方をします。

さらに早見沙織さんの硝子の演技も、聞き取りやすいアニメ声へ寄せきらないところが特徴的です。

「声がある」と「声が相手へ届く」は別だという作品テーマが、声優の芝居そのものに乗っています。

漫画版は人物関係をじっくり追える強み、映画版は視覚と音で心理を体験させる強みがある。

なので、どちらが上という比較より、媒体の違いを見る方が面白いです。

原作改変や尺の圧縮が気になる人は、『僕だけがいない街』のアニメと漫画の違いのような作品と比較すると、漫画を映像化する難しさも見えてきます。

『聲の形』はひどい?

最後に、『聲の形』は本当にひどい作品なのかをまとめます。

僕の答えとしては、ひどいと感じるポイントは確実にあるけれど、それ自体が作品の失敗とは限らないです。

むしろ本作は、視聴者が簡単に気持ちよくなれない題材を選んでいます。

いじめの記憶は消えない。

傷つけた事実も消えない。

謝れば全部リセットされるわけでもない。

相手が何を考えているか100%理解することもできない。

こんな面倒な現実を抱えたまま、それでも他人と関わることはできるのか。

そこを描いている作品です。

一方で、映画版だけを見るとキャラクターの掘り下げ不足や展開の圧縮を感じる場面があり、そこは僕も全面擁護する気はありません。

ぶっちゃけ「原作を知らないと補完しにくいやろ」と思うところはあります。

だから意味不明という感想にも理由があります。

それでも映像作品として見ると、山田尚子監督の視線設計、焦点のコントロール、身体の芝居、牛尾憲輔さんによる抑制された音響、声優陣の生っぽい演技が全部同じ方向を向いている。

ここはかなり完成度が高いです。

特に「人の顔を見る」という当たり前の行動を、ここまで映画的なイベントへ変換した作品はそう多くありません。

Z世代の僕らは、直接顔を見なくても人間関係を作れる時代に生きています。

DMで話せるし、SNSで誰かの考えを知った気にもなれる。

でも本当にその人のことを見ているかと言われると、怪しい。

自分に都合よく解釈した相手のイメージを見ているだけかもしれません。

『聲の形』が公開から時間が経っても刺さるのは、この問題が古くなるどころか、むしろ今の方が身近になっているからだと思います。

『聲の形』がひどいと言われる主な理由

  • いじめと集団心理の描写が生々しく胸糞悪い
  • 加害者と被害者の関係性に抵抗を感じやすい
  • 説明を省いた演出が意味不明に見えることがある
  • 川井をはじめ自己正当化する人物が不快
  • 自死や自己否定を扱うため精神的に重い
  • 映画版は原作より人物描写が圧縮されている
  • 一方で映像と音による心理表現は非常に緻密

なので、スカッとする青春映画や分かりやすい恋愛映画を期待して観ると、かなりしんどいです。

逆に、完璧ではない人間同士がどうやって他者と向き合うのかを考えたい人には、めちゃくちゃ残る作品です。

そして一度観て「嫌い」と感じたとしても、それも全然あり。

『聲の形』は全員が同じ感想になるタイプの作品ではありません。

むしろ「自分はなぜこの人物を許せないんだろう」「なぜこの場面が気持ち悪かったんだろう」と考え始めた瞬間、すでに作品のテーマである他者理解の難しさに巻き込まれている気がします。

なお、作品情報や今後の放送・商品などは変更される場合があります。

正確な情報は映画『聲の形』公式サイトなど、各公式情報をご確認ください。

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