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『ミュージアム』の映画はひどい?酷評の理由を検証

映画・ドラマ

皆さんは『ミュージアム』という映画を知っていますか?

小栗旬さん演じる刑事が、雨の日に現れるカエル男を追いかけるサイコスリラーなんですが、検索すると映画『ミュージアム』はひどい、演技がひどい、グロい、ラストの意味がわからないなど、なかなか物騒な言葉が並びます。

これだけ見ると、とんでもない失敗作なのかと思ってしまいますよね。

でも僕は、この作品の場合は単純に出来が悪いという話ではなく、演出のクセ、脚本のご都合感、役者に要求された芝居の方向性が全部かなり極端なんだと思っています。

しかも、大友啓史監督らしい動きの多い撮影と、雨、黒、閉鎖空間を徹底的に使った映像はかなり攻めています。

ぶっちゃけツッコミたくなる部分も普通にあります。

ただ、それと映画としてつまらないかどうかは別問題なんすよ。

この記事では、演技がひどいと言われる理由から、グロい描写、カエル男、犯人の動機、『セブン』との類似、ラスト、息子、原作との違いまで、映像オタク目線で掘っていきます。

  • 映画『ミュージアム』がひどいと言われる理由
  • 演技やグロ描写が賛否を呼ぶ原因
  • カエル男やラストに込められた意味
  • 原作との違いと映画版ならではの魅力

『ミュージアム』の映画がひどい理由

映画『ミュージアム』への否定的な感想を見ていくと、単純にひどいという一言では片づけにくいです。

演技が大げさ、展開に無理がある、警察の動きにツッコミどころがある、グロい、テンポが落ちるなど、批判されている場所がかなりバラバラなんですよね。

逆に、小栗旬さんと妻夫木聡さんの芝居、雨を使った映像、犯人の不気味さについては高く評価する声もあります。

つまり本作は、全部がダメだから酷評されているというより、作り手が振り切った場所ほど観客の好みが割れている映画です。

『ミュージアム』を見るときは、リアルな刑事ドラマとして見るのか、漫画的なサイコスリラーとして見るのかで印象がかなり変わります。

演技がひどい?

ネット上でかなり目につくのが、小栗旬さんの演技がうるさい、大げさ、叫びすぎという感想です。

ここ、めちゃくちゃ分かります。

沢村は事件が進むほど冷静な刑事ではいられなくなり、呼吸も声量も身体の動きもどんどん荒れていきます。

なので、抑制された刑事ドラマを期待して見ると「ずっと興奮してない?」と感じやすいんですよ。

ただ、映像とセットで見ると少し印象が変わります。

『ミュージアム』は、主人公を客観的に眺める作品というより、沢村が追い詰められていく感覚へ観客を巻き込む映画です。

画面も沢村が焦るほど落ち着かなくなり、近い距離から顔や身体を拾う場面が増えていきます。

そこで役者だけ静かに芝居をしていたら、映像側との温度差が出てしまうんですよね。

小栗旬さんの大きな芝居は、沢村という人間の余裕が剥がれていく過程を身体で見せるための演出でもあります。

とはいえ、全部を擁護するつもりはありません。

感情を爆発させる場面が続くので、静かな状態との差が途中から小さくなるんです。

映像って、叫ぶシーンが一回だから爆発に見えるわけで、何度も続くと観客側の耳と感情が慣れてしまいます。

ここはもう少し引き算しても良かったんじゃないかな、と僕は感じます。

就活や仕事でも似ていて、ずっと全力で喋っている人より、普段は落ち着いている人が一度だけ声を荒らげたほうが記憶に残ります。

映画の芝居も同じです。

だから、演技力がないというより、演出全体が最初からかなり高いテンションを要求している作品と見るほうがしっくりきます。

グロい描写

『ミュージアム』をこれから見る人に一番伝えておきたいのは、普通の刑事サスペンスより残酷描写の圧がかなりあることです。

しかも嫌なのが、単純に血を出せば怖いという撮り方ではないんですよ。

カエル男は被害者への制裁を一種の作品として扱います。

そのため、事件現場そのものが展示物のように設計されています。

これがタイトルの『ミュージアム』にもつながっているわけです。

僕が面白いと思うのは、残酷描写そのものより、その前後の画面設計です。

雨で光量を落とした屋外、暗部が大きく残る室内、湿った色味など、とにかく画面から乾いた場所を減らしています。

普通のホラーなら暗闇から何かが出る恐怖を作りますが、本作は街そのものをずっと不快な湿度で包む。

だから事件現場から離れても安心できません。

これ、地味に効くんすよ。

一方で、残酷な事件が連続するため、後半になるほど刺激に慣れてしまう欠点もあります。

最初の衝撃を超えようとすると、作品側はさらに奇抜な出来事を用意しなければなりません。

その結果、サスペンスというより犯人のショーを眺めている感覚になる瞬間も出てきます。

猟奇事件や流血を連想させる映像が苦手な人には、かなり刺激の大きい作品です。

食事中に気軽に見るタイプの映画ではないっすね。

ただ、残酷さをただの見世物として終わらせず、犯人が人間を勝手に評価して裁く気味悪さへ接続しているのは、この映画の重要な部分です。

カエル男の正体

カエル男の正体は物語でもかなり大きなネタバレになるので、ここでは具体的な人物名や登場経緯までは書きません。

重要なのは、正体そのものよりも、なぜカエルのマスクを被る必要があるのかです。

僕はここが『ミュージアム』のキャラクター設計で一番おもしろい場所だと思っています。

カエル男は普通の連続殺人犯のように、自分の顔や人格で観客と向き合いません。

マスクを被り、刑に名前をつけ、自分をアーティストとして演出します。

つまり、個人ではなくキャラクターを作っているんです。

今のSNSで言えば、素の自分ではなく、投稿用に作った人格がどんどん本人を飲み込んでいく状態にちょっと似ています。

承認されたい人間ほど、いつしか承認されるためのキャラクターから降りられなくなる。

カエル男の場合、それが最悪の方向へ肥大化しています。

彼が欲しいのは単純な殺害の達成感ではなく、自分の作品を誰かに見せ、その意味を理解させることです。

だから事件にはいちいちタイトルや演出が必要になる。

そして主人公の沢村も、ただ犯人を捕まえる刑事ではなく、その鑑賞者として犯人の舞台へ引きずり込まれていきます。

犯人対刑事というより、表現者を自称する人間対、その作品を見ることを強制された観客。

こう考えるとタイトルが『ミュージアム』なのもめちゃくちゃ嫌な意味を帯びてきます。

犯人の動機

犯人の動機については、かなり賛否が分かれています。

事件の背景には裁きや冤罪に関係する要素がありますが、単純な復讐物語として見ると少し肩透かしになるんですよ。

ネット上でも「そこに怒るの?」と犯人の価値観そのものにツッコミを入れる感想があります。

僕も初めて構造を追ったとき、社会派サスペンス方向へ行くと思わせて、かなり個人的な自己顕示へ着地するのが面白い半面、モヤッとしました。

ただ、そこは欠点であると同時にカエル男らしさでもあります。

この人物は、社会を良くしたい革命家ではありません。

自分だけの基準で人間の罪を決め、自分だけの方法で裁き、それを作品として他人に見せる人間です。

だから論理に完全な一貫性を求めるほど、逆にズレて見える。

カエル男が怖いのは正義を持っているからではなく、自分の正義に疑問を持つ工程が完全に抜け落ちているからです。

これって現実の人間関係でも地味に怖いんですよね。

会社でも学校でも、自分の常識をそのまま世界の常識だと思い込む人はいます。

もちろん現実では映画のような話にはなりません。

でも「自分は正しいから相手を裁いていい」という発想が生まれる瞬間の気味悪さは、かなり身近です。

なので僕は、この映画を裁判制度について深く論じる社会派作品というより、勝手に他人の人生へ採点を始める人間の恐怖として見るほうがしっくりきます。

セブンに似てる

『ミュージアム』を見てデヴィッド・フィンチャー監督の『セブン』を連想した人はかなり多いと思います。

これはまあ、連想するなというほうが無理です笑。

雨の多い陰鬱な世界、連続殺人、罪と制裁を結び付ける犯人、事件を追う刑事、そして犯人が刑事自身をゲームへ巻き込んでいく構造。

共通して見える部分は確かにあります。

ただ、僕は『ミュージアム』を単純な『セブン』のコピーとして切り捨てるのも違うと思っています。

『セブン』は都市全体に漂う腐敗や罪を見せながら、刑事たちを犯人の思想へ閉じ込めていく作品です。

一方、『ミュージアム』は物語が進むほど沢村個人、とりわけ家族との関係へ焦点が狭まっていきます。

スケールが小さくなるというより、社会の恐怖を家庭という一番逃げ場のない場所まで持ってくる感じです。

そして映像も違います。

フィンチャー作品の恐怖には、かなり計算された画面の静けさがあります。

対して大友啓史監督は、人を動かし、カメラも動かし、役者の身体へかなり接近します。

静かに観察させる恐怖というより、観客まで走らせる恐怖です。

だから『セブン』を期待すると漫画的だと感じる人がいるし、逆に日本のエンタメスリラーとして見ると疾走感を楽しめます。

映画公式でも本作はスリラーエンターテインメントとして紹介されています。

(出典:映画『ミュージアム』オフィシャルサイト)

影響を連想させる要素はある。

でも、同じ料理を作っているわけではない。

この距離感で見るのが一番フェアかなと思います。

『ミュージアム』の映画は本当にひどい?

ここまで欠点をかなり書いてきましたが、じゃあ『ミュージアム』は本当にひどい映画なのかというと、僕の答えはそんな単純じゃないです。

むしろ賛否が分かれる場所ほど、この映画が普通の刑事物からはみ出そうとした痕跡があります。

特に後半は、犯人当てよりも、沢村という人間が何を選ぶのかへ比重が移ります。

そこから家族、罪、トラウマというテーマが前へ出てくる。

ただし、そのぶん説明の多さや展開の無理も目立ちます。

ここからはラストや原作との差まで踏み込みますが、未視聴でも鑑賞体験を壊しすぎないよう、具体的な重要場面は伏せながら見ていきます。

ラストの意味

『ミュージアム』のラストが気になる人が多いのは、事件が終わったかどうかとは別に、最後へ不穏な余韻が残されているからです。

ここでは具体的な画面を細かく説明しませんが、ポイントは「事件が解決したこと」と「事件の影響が消えたこと」は同じではない、ということです。

これ、僕は映画版のテーマを読むうえでかなり大事だと思っています。

普通のサスペンスなら犯人を止めた時点で物語は一区切りできます。

でも現実の事件って、そんなゲームみたいに終了画面が出るわけじゃないんですよね。

被害を受けた人の記憶も、家族関係も、その後ずっと続いていく。

映画は最後の短い演出によって、その後遺症を観客の頭へ残します。

ハッピーエンドらしい形を見せながら、完全には安心させない。

この「終わったのに終わっていない」感覚がラストの肝です。

僕は映画のラストって、伏線を全部回収する必要はないと思っています。

むしろ映画館を出た後まで一本だけ棘が残っているほうが、何年も覚えていたりする。

『ミュージアム』の終盤には説明過多な場所もあるのに、最後だけ説明しきらず映像へ預ける。

そこはかなり映画的です。

なので、意味がわからないから失敗というより、明確な答えではなく不安を持ち帰らせるためのラストと見ると腑に落ちやすいです。

息子の病気

ラストとセットで検索されやすいのが、沢村の息子に関する疑問です。

ここは断定しないほうがいい部分です。

映画内では、ある人物が抱える症状や心理的背景と、終盤の息子を連想させるような演出が置かれています。

そのため、同じ状態になったのではないか、事件による心の傷を示しているのではないか、という解釈が生まれています。

ただ、映画の一場面をそのまま現実の医学的診断へ置き換えるのは違います。

僕はむしろ「病名当て」をするより、親から子、加害者から被害者へ、経験した恐怖が残ってしまう可能性を示した比喩として見るほうが作品には合っていると思います。

怖いのは病気そのものではありません。

事件から救出されれば全部元通りになる、という観客の安心を最後に少しだけ壊すことです。

家族は再び一緒にいられる。

でも記憶まで消せるわけではない。

その現実を一瞬で見せています。

僕自身、人間関係でも「問題が解決したから気持ちまで元通り」ということはほぼないと思っています。

喧嘩して仲直りしても、一度言われた言葉が残ることってありますよね。

極端なフィクションではあるけど、あの余韻の根っこにある感覚は意外と現実的です。

作中の表現はフィクション上の演出として受け取るのが適切です。

作品設定の正確な情報は公式サイトをご確認ください。

現実の症状や健康状態について気になる場合は、映像作品だけで判断せず、最終的な判断は専門家にご相談ください。

原作との違い

映画『ミュージアム』は巴亮介さんの漫画を原作にしていますが、そのままコマを映像へ置き換えた作品ではありません。

映画版では人物関係や心理面に手が加えられ、特に終盤の家族というテーマが前へ出ています。

ここが原作ファンの評価を分ける場所でもあります。

原作が持っている救いのなさや嫌な読後感を気に入っていた人ほど、映画版の変更に引っかかる可能性があります。

逆に、映画として沢村の物語へ一本の軸を通したと考えれば、変更した理由も見えてきます。

漫画は読者がページをめくる速度を自分で決められます。

映画は約二時間ほどの時間を作り手が握ります。

だから原作の情報を全部詰め込めばいいわけじゃありません。

何を削り、何を足して、最後にどんな感情を残すかを選ぶ必要があります。

『ミュージアム』の場合、その選択先が沢村の家族なんですよね。

僕は実写化を見るとき、原作と違うこと自体はマイナスにしません。

問題は「変えたことで何が生まれたか」です。

映画版では犯人との対決が、刑事と殺人鬼だけの勝負ではなく、沢村が自分の家族との向き合い方を突きつけられる構造へ寄っています。

その意味では変更にちゃんと役割があります。

ただし、そのために追加された説明が少しくどく感じる場所もあります。

映像だけで分からせてもよかったことまで言葉にするので、せっかくの不穏さが一瞬しぼむ。

ここはあえて苦言を呈したいです。

漫画の情報量を映画へ移すとき、足す勇気だけじゃなく黙る勇気も欲しかった。

僕が一番引っかかるのはそこですね。

ネタバレ結末

結末については、鑑賞前の人が読んでも致命的なネタバレにならない範囲に留めます。

終盤では、沢村が単純に犯人を捕まえれば勝ちという状況ではなく、自分自身の価値観を試される立場へ追い込まれます。

つまりクライマックスの本当の焦点は、アクションの勝敗ではありません。

犯人が用意したルールに沢村が従うのか、それともルールそのものを拒否するのかです。

ここがかなり重要です。

カエル男はずっと、人間へ勝手な罪名を与え、勝手な刑を作り、他人を自分の世界観へ参加させてきました。

なので終盤で問われるのは「犯人より賢いか」ではなく、他人から押し付けられたゲームをゲームとして受け入れてしまうのかなんですよ。

この構造は結構好きです。

ネット上では終盤の展開についてツッコミどころが多いという感想もあり、警察の動きや人物の行動へ現実味を求めると、確かに気になる部分があります。

僕も「そこ、もう少し早く動けるやろ」と言いたくなる瞬間はありました笑。

ただ、映画が優先しているのは捜査手順の正確さではなく、主人公と犯人を一対一の心理戦へ閉じ込めることです。

リアリティを削ってでもクライマックスの形を作っている。

そこを許せるかどうかが評価の分かれ目です。

そして最後は、事件そのものには一定の区切りを与えながら、観客へ完全な安心を渡しません。

だから鑑賞後に「結局どういう意味?」と検索したくなる。

ある意味、ラスト数秒まで設計通りなんですよ。

キャスト評価

『ミュージアム』はキャストの芝居に対する評価もかなり割れます。

特に小栗旬さんとカエル男に関わる人物の演技は、作品の印象をかなり左右しています。

キャスト役柄注目したいポイント
小栗旬沢村久志追い詰められるほど崩れていく身体表現
妻夫木聡重要人物普段のイメージから離れた異質な存在感
尾野真千子沢村の妻家庭側から沢村の欠落を映す芝居
松重豊関端浩三暴走しがちな主人公を現実側へ戻す役割

まず小栗旬さん。

ネット上では大声や荒々しい芝居が苦手という意見がありますが、僕は顔より身体の変化を見ると面白いと思っています。

序盤は刑事として前へ出ている人間なのに、物語が進むほど姿勢や呼吸から余裕が消えていく。

演技が派手なので好みは割れます。

でも、沢村の精神状態を画面へ即座に伝えるという役割は果たしています。

そして妻夫木聡さん。

鑑賞後に配役を確認して驚いたという感想が出るのも分かります。

普段の爽やかな印象を利用するというより、そのイメージを一度消してから人物を作っているタイプの役です。

特殊メイクや衣装だけではなく、喋り方や間の取り方まで含めて別人感を作っています。

ここは映画好きとしてかなり楽しいところ。

一方、尾野真千子さんを含む家族側の芝居は、人によっては生々しすぎたり、感情の押し出しが大きく感じたりすると思います。

ただ、沢村を英雄として描かないためには必要な存在でもあります。

仕事では有能でも、家族から見れば必ずしも良い夫や父親ではない。

ここを曖昧にすると、後半の選択がただのヒーロー物になってしまいます。

キャストの芝居は全体的に静かなリアリズムより、感情を画面へ露出させる方向です。

そこに乗れる人には熱量として届くし、乗れない人には過剰に映ります。

『ミュージアム』の映画はひどい?

映画『ミュージアム』がひどいと言われる理由を見ていくと、確かに欠点はあります。

警察の行動にツッコミたくなる場面、途中でテンポが落ちる箇所、説明を台詞へ預けすぎる瞬間、小栗旬さんの芝居が大きく感じる場面。

ここは無理に名作扱いして隠す必要はないです。

僕も気になります。

ただ、それだけで駄作にしてしまうのはもったいない。

雨と暗部を使った画面設計、事件現場を展示物として見せる美術、カエル男というキャラクターの自己演出、主人公を捜査側から当事者側へ落としていく構造など、映画としてちゃんと遊んでいる部分も多いです。

特に僕が評価したいのは、最初から最後まで「見る」という行為がテーマに絡んでいることです。

犯人は自分の作品を見せたがる。

沢村は事件を見る側だったのに、途中から展示の中へ入れられる。

そして観客である僕たちも、残酷な事件をエンタメとして見ています。

タイトルが『ミュージアム』なのは、犯人が作った展示空間だけを意味しているわけではない。

観客までその美術館へ入場させられているような嫌さがあるんですよ。

この発想は結構好きです。

一方で、犯人の思想を深遠な哲学として受け取る必要もないと思っています。

むしろ自分を芸術家だと思い込んだ人間の幼稚さまで含めて不気味なんです。

ネットで誰かを勝手に採点したり、一部分だけを見て「この人はこういう人間」と決めたりする行為とも少し重なります。

僕もブログを書いていると、作品へ点数をつけたり批評したりします。

だからこそ、評価する側が偉いわけではないという感覚は忘れたくないです。

カエル男は、その境界を完全に踏み越えた存在にも見えます。

『ミュージアム』は万人向けの完成度を目指した映画ではなく、不快感、過剰さ、漫画的な展開まで含めて観客を追い込むサイコスリラーです。

リアルな警察ドラマを期待するなら、かなり引っかかると思います。

残酷描写が苦手な人にも勧めにくいです。

逆に、犯人との心理戦、雨に沈んだ映像、俳優の振り切った芝居、後味の悪いサスペンスが好きなら、ちゃんと見る価値があります。

なので、検索候補に出てくる「ひどい」だけを見て避けてしまうのは早いっすね。

欠点が見えやすい映画なのは間違いない。

でも同時に、その欠点について誰かと語りたくなるタイプの映画でもあります。

僕にとって『ミュージアム』は、完璧だから記憶に残る作品ではありません。

嫌なところも、やりすぎなところも含めて、妙に頭から離れない映画です。

そしてサスペンスやホラーって、案外そういう映画のほうが何年も残ったりするんですよね。

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