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『母性』の映画はひどい?気持ち悪い・意味不明の理由

映画・ドラマ

皆さんは映画『母性』という作品を知っていますか?

湊かなえさんの同名小説を戸田恵梨香さんと永野芽郁さんの共演で映画化した作品ですが、鑑賞後に検索すると「ひどい」「気持ち悪い」「意味不明」「怖い」といった、かなり刺激の強い感想が出てきます。

一方で、母親と娘が同じ出来事をまったく違うものとして記憶している構成や、戸田恵梨香さんをはじめとした俳優陣の演技を高く評価する声も少なくありません。

つまり『母性』は、単純につまらないから評価が割れている映画ではないんですよね。

むしろ、人間関係で起こる「私は愛した」「私は愛されなかった」という埋めようのないズレを、映像そのものへ落とし込んだ作品です。

年間数百本のアニメや映画を観ている僕tatamiが、今回はネタバレを必要以上に踏み抜かない範囲で、なぜ『母性』の映画がひどいと言われるのか、気持ち悪さや意味不明に感じる理由、原作との違い、母と娘それぞれの視点まで映像オタク目線で解剖していきます。

  • 『母性』がひどいと言われる理由
  • 気持ち悪い・怖いと感じる演出の正体
  • 母と娘で真実が違って見える仕組み
  • 原作との違いやラストを考えるポイント

『母性』には親子関係や精神的な圧迫、自死を連想させる重い題材が含まれています。

こうしたテーマが精神的な負担になりそうな場合は無理に視聴せず、ご自身の状態を優先してください。

作品情報の正確な情報は公式サイトをご確認ください。

また、現実の家族関係や心身の問題について深刻な悩みがある場合、映画の解釈だけで判断せず、最終的な判断は専門家にご相談ください。

『母性』の映画がひどいと言われる理由

まず押さえておきたいのは、『母性』への「ひどい」という感想には複数の意味が混ざっていることです。

物語がつまらないという意味だけでなく、「登場人物の言動がひどい」「観ていてしんどい」「母娘関係が気持ち悪い」「説明されない部分が多くて意味不明」という反応まで、一つの検索語に集約されています。

しかも本作は、その不快感を取り除く方向ではなく、むしろ観客へ体験させる方向で撮られている。

ここをどう受け取るかで評価がかなり変わります。

気持ち悪い?

『母性』を観た人の感想で目立つのが、「母と娘の関係が気持ち悪い」「登場人物に共感できない」という反応です。

これ、僕はかなり理解できます。

ただし、この気持ち悪さはホラー映画のグロテスクさとは違います。

もっと日常に近い。

相手を愛しているつもりなのに、その愛情が相手にとっては息苦しさとして届いている。

このズレを延々と見せられることが、本作独特の居心地の悪さにつながっています。

特にルミ子は、自分自身を悪意のある母親だとは認識していません。

自分なりに愛し、自分なりに家族のために行動している。

ところが娘の清佳から見ると、その愛情は自分へ向いているようで、実は別の場所を見ているように感じられる。

同じ愛情表現なのに、送った側と受け取った側で意味が反転してしまう。

ここがめちゃくちゃ怖いんすよ。

普通の家族ドラマなら、すれ違いが発生したあとに本音を話して仲直りする流れがあります。

『母性』は、その気持ちいい着地点を簡単には用意しません。

むしろ「そもそも同じ出来事を見ていたと思っていること自体が間違いでは?」と観客へ突きつけてきます。

だから登場人物へ感情移入しようとすると、途中から足場がなくなるんですよね。

ネット上で見られる「全員どこかおかしい」「共感できなくて気持ち悪い」という反応も、この構造から生まれていると僕は感じました。

『母性』の気持ち悪さは、異常な家族を遠くから眺める怖さではありません。

自分にも「伝えたつもりなのに、相手にはまったく違う意味で届いていた経験があるかも」と思わせてくる怖さです。

意味不明?

『母性』が意味不明に感じられる最大の理由は、映画が一つの客観的な正解を簡単に提示しないことです。

母の語る記憶。

娘の語る記憶。

両方を見ると、「いや、さっきと話が違うやん」となる場面が出てきます。

ミステリー映画をよく観る人ほど、「じゃあ最後に本当の出来事が提示されるんだな」と期待しやすい。

ところが『母性』の面白いところは、その期待そのものを利用していることです。

この映画で重要なのは、どちらが嘘をついているかではなく、人間の記憶は感情によって編集されるということ。

カメラは普通、客観的な事実を映しているように見えます。

でも『母性』では、その「映像=事実」という映画の基本ルール自体がかなり怪しい。

人物の記憶に入った瞬間、画面は証拠映像ではなく主観映像になるんですよね。

ここを理解せずに観ると、「設定が矛盾している」「さっきと違う」「結局どっちなん?」となります。

逆に、同じ出来事が再登場したときの表情、人物同士の距離、声の温度を見ると、映画が何を変えているのかが見えてきます。

僕はこの仕掛け、かなり映画向きだと思っています。

小説なら語り手の文章そのものを疑えますが、映画では映像を見せられた瞬間、僕らは反射的に「これは起きたことだ」と信じてしまうからです。

その信用を逆手に取っている。

ただし、ぶっちゃけ説明不足と感じる人が出るのも当然です。

作品側が積極的に混乱させている以上、「読み取れない観客が悪い」で片付けるのは違います。

意味不明という感想も、この映画に対するかなり自然なリアクションだと思います。

怖い理由

『母性』はジャンルとして典型的なホラー映画ではありません。

なのに怖い。

その理由は、幽霊や怪物ではなく、愛情が暴力とほとんど見分けのつかない形へ変化していく瞬間を描いているからです。

廣木隆一監督の演出も、過剰に恐怖を煽る方向ではありません。

むしろ普通の部屋、普通の食卓、普通の会話の中へ違和感を置いています。

この「普通に見える」という部分が重要です。

最初から画面が暗くて不気味な音楽が鳴っていれば、観客は身構えられます。

でも日常風景の中で人間関係だけがおかしくなっていくと、逃げ場がない。

特に戸田恵梨香さんの演技は、声を荒らげる場面以上に、相手を見ているはずなのに視線の焦点が少し別の場所にあるような瞬間が怖いです。

言葉では愛情を語っている。

なのに表情を見ると、「この人はいま本当に娘を見ているのか?」という疑問が生まれる。

永野芽郁さん側も、大げさな被害者芝居だけに逃げません。

愛されたいからこそ母親を嫌い切れないという矛盾が、表情の揺れとして残っています。

嫌いなら離れればいい。

でも好きだから離れられない。

この構造、恋愛でも仕事でもありますよね。

Z世代として人間関係を見ていると、「嫌なら切ればいい」という価値観はかなり一般化しました。

だけど現実には、家族や長く続いた関係ほど簡単には切れません。

だから『母性』の怖さって古い家族観だけの話じゃないんすよ。

承認してほしい相手から承認されない苦しさは、普通に現代的です。

評価と感想

『母性』への評価が割れるのは、作品が観客へ求めているものと、観客が映画に求めているものがかなりズレやすいからです。

テンポのいいミステリーや衝撃的などんでん返しを期待すると、物語の重さや湿度がしんどく感じる。

一方で、人間の主観や記憶のズレを楽しめる人にはかなり刺さります。

好意的な感想では、母と娘それぞれの視点から同じ出来事を描く構成、俳優陣の演技、母性そのものを問い直すテーマ性が評価されています。

逆に否定的な感想では、「暗い」「登場人物に共感できない」「大げさに感じる」「原作より軽くなった」といった不満が見られます。

僕が映像面で一番面白いと思ったのは、映画が観客に誰か一人の味方をさせないことです。

普通のドラマなら主人公の視点に寄せて、観客が安心して感情移入できるレールを敷きます。

『母性』では、そのレールが途中でズレる。

母の話を聞いて「そういうことだったのか」と思った直後、娘側から別の風景を突きつけられる。

これによって観客自身が、自分がどれだけ簡単に片方の証言を信用していたのかに気づかされます。

仕事の人間関係でも同じですよね。

Aさんから相談を聞けば「Bさんひどいな」と思う。

ところがBさんの話を聞くと「いや、全然違うやん」となる。

人間関係って、防犯カメラみたいな客観映像で記憶しているわけではありません。

『母性』はそれを映画の形式でやっています。

映画は2022年11月23日に公開され、監督は廣木隆一さん、脚本は堀泉杏さん。

ルミ子を戸田恵梨香さん、清佳を永野芽郁さんが演じています。

大地真央さん、高畑淳子さん、中村ゆりさん、山下リオさんらが出演しています。

(出典:映画『母性』オフィシャルサイト)

原作との違い

映画『母性』は、湊かなえさんの同名小説を原作にしています。

原作は母の手記と娘の回想を交錯させながら、同じ親子関係がまったく違った形に見えてくる構造が特徴です。

映画もこの中心部分は受け継いでいます。

ただ、映像作品には上映時間があります。

そのため、小説に存在する出来事や人物関係の一部は圧縮・変更されており、原作を読んだ人からは「映画版はかなりマイルドになった」という感想も出ています。

ここは結構重要です。

小説では文章を使って人物の思考を奥深く掘れます。

一方、映画は約2時間の中でそれを表情、編集、美術、台詞へ変換しなければならない。

だから映画版では、出来事そのものを全部残すより、母と娘の認識が食い違うという中心ギミックを優先したように見えます。

僕は映画化として合理的だと思います。

ただし副作用もあります。

原作で積み重ねられていた背景が減ることで、「なんでこの人物はここまで執着するんだ?」と感じやすくなる。

映画だけ観た人が意味不明に感じる一因は、ここにもあります。

ぶっちゃけ全部詰め込めばいいわけでもないんですよ。

原作を忠実に再現しすぎれば今度は説明だらけになる。

映画版『母性』は再現ではなく、文章で行われていた「信用できない語り」をどう映像へ移植するかに重点を置いた作品だと見ると分かりやすいです。

『母性』の映画はひどい?結末まで考察

ここからは物語の構造やラストに触れながら、『母性』が何を描こうとしていたのかをもう一段掘ります。

ただし、映画を観なくても細部まで分かってしまうような出来事の羅列はしません。

『母性』は「何が起きたか」より、「誰の視点でそれを見たか」が重要な映画だからです。

未鑑賞の人でもテーマをつかめる範囲に留めつつ、鑑賞済みなら「あの違和感はそういうことか」と振り返れる形で考えていきます。

あらすじ

物語の中心にいるのは、母のルミ子と娘の清佳です。

ある出来事をきっかけに、二人がこれまで歩んできた親子関係が振り返られていきます。

ポイントは、単純な回想映画ではないことです。

母が語る過去と、娘が記憶している過去には少しずつ違いがあります。

同じ家庭。

同じ時間。

同じ出来事。

なのに意味が違う。

ルミ子にとっては愛情を注いだ記憶でも、清佳にとっては愛情を求め続けた記憶になっている。

この時点で、本作が普通の「毒親映画」と少し違うことが分かります。

分かりやすい悪人が子どもを苦しめる話なら、観客は簡単に善悪を決められます。

『母性』では、本人が愛していると信じていること自体が問題になる。

だから観ている側も判断しづらいんですよね。

僕はここが作品の肝だと思います。

誰かを大切にしていることと、その人が大切にされたと感じることは別。

言葉にすると当たり前なのに、家族になると僕らはつい「分かっているはず」と思ってしまう。

『母性』はその思い込みを、ミステリーの形で剥がしていく作品です。

ネタバレ

ネタバレありで考える場合でも、『母性』は出来事を時系列順に並べて「これが真相です」と説明するだけでは魅力がかなり減ります。

重要なのは、物語後半になるほど観客が最初に信じた情報の意味が揺らいでいくことです。

僕らは映画を観ると、画面に映ったものを無意識に事実だと認識します。

でも本作では、映像の一部が登場人物の記憶と密接に結びついている。

つまり同じ画面でも、客観映像ではない可能性があるわけです。

これがかなり厄介で面白い。

ミステリー作品によくある「犯人は誰だ」という問いなら、最後に答えを一個出せます。

『母性』が扱うのは、「あの時、私は愛されていたのか」という問いです。

こんなの防犯カメラを確認しても答えは出ません。

だから物語上の出来事がある程度判明しても、感情の真相までは確定しない。

この作品のネタバレを知ることと、この作品を理解することは別物です。

ここは『母性』のかなり面白い部分だと思います。

どんでん返しだけを目的にすると一回観れば終わりですが、視点の違いがテーマなら、二度目は表情やカメラの距離を見直せます。

一周目で母を見ていた場面を、二周目は娘の顔を見る。

すると同じシーンの意味が変わる。

映画好きとしては、こういう再鑑賞で化ける作品はめっちゃ好きです。

母親の真実

ルミ子を「娘を愛さないひどい母親」とだけ定義すると、『母性』はかなり単純な映画になります。

でも実際はもう少し面倒です。

ルミ子自身にも「娘」「妻」「母」という複数の立場があります。

ここでタイトルの『母性』が効いてきます。

女性は子どもを産めば自然に母親らしい感情を持つ。

母親なら無条件に子どもを最優先する。

僕らは無意識に、そんな役割を一人の人間へ要求しています。

ところがルミ子は、そのテンプレートからズレている。

そのため観客は「母親なのに」と感じるわけです。

でも映画が問いかけているのは、まさにその「なのに」の部分なんですよね。

母親になることと、母性と呼ばれる感情を自動的に獲得することは同じなのか。

さらにややこしいのは、ルミ子自身も誰かの娘であることです。

人は結婚した瞬間、出産した瞬間に、それまでの承認欲求や親への依存が全部消えるわけではありません。

大人になっても親に認められたい人は普通にいます。

僕らZ世代だって、就職や仕事の選択を自分で決めたつもりでも、親の一言に妙に揺さぶられることがあります。

『母性』は、それをかなり極端な形まで押し広げている。

だからルミ子の行動を肯定する必要はないけれど、「異常な人だから」で終わらせると作品の嫌らしさを取り逃がします。

親から子へ続く支配や罪悪感を別の角度から扱った映画が気になるなら、僕が考察した『ボーは恐れている』の母親と支配の考察もかなり相性がいいです。

娘の真実

清佳側から見ると、『母性』は愛情を求め続けた娘の話になります。

この視点に切り替わると、それまで温かく見えていた場面がまったく別の質感を帯びる。

映像作品として面白いのは、台詞だけを変更しているわけではないことです。

表情。

視線。

人物同士の距離。

誰が画面の中心にいるのか。

そうした要素が少し変わることで、同じ出来事なのに温度が変わります。

僕らも昔の記憶を思い出すとき、部屋の配置まで完全に保存しているわけではありません。

嬉しかったなら明るい記憶になる。

怖かったなら相手の表情が実際以上に怖く残る。

映画は本来、そういう人間の不完全な記憶を表現するのが得意です。

清佳の視点で大切なのは、「母親が何をしたか」だけではありません。

自分が母親からどう見られていると感じていたかです。

子どもにとって親の視線ってめちゃくちゃ大きいんですよね。

褒められた。

無視された。

別の誰かと比較された。

大人になれば些細な出来事に見えても、子どもの世界ではその一瞬が世界の全部だったりします。

だから母親側が「そんなつもりじゃなかった」と説明しても、娘側の記憶は消えない。

この感覚は、言葉にされない感情と視線のズレを描く『聲の形』がひどいと言われる理由の考察にも通じる部分があります。

相手を理解したつもりでも、結局は相手本人にはなれません。

『母性』はその当たり前の事実を、かなり痛い形で見せてきます。

ラストの意味

『母性』のラストを考えるとき、「結局どちらが正しかったのか」という問いだけで追いかけると少し苦しくなります。

本作は裁判映画ではありません。

母の証言と娘の証言を並べて、判決を出すことがゴールではない。

むしろ終盤になるほど、「母性」という言葉そのものを誰が決めるのかが浮かび上がってきます。

社会が決めるのか。

母本人が決めるのか。

娘が決めるのか。

あるいは第三者が「あの人は良い母親だ」と評価すれば成立するのか。

この映画、そこに簡単な模範解答を置いていません。

僕はラストを、母娘関係の勝敗ではなく、清佳が母親だけの視点から少しずつ外側へ出ていく物語として見ると理解しやすいと思っています。

親子関係って不思議で、子どもの頃は親が世界そのものです。

でも成長すると、その親も完璧な大人ではなく、一人の不完全な人間だったと気づく。

この瞬間は、ある意味でかなり残酷です。

神様だと思っていた人が普通の人間になるからです。

ただ、その認識がないと自分の人生も始まりません。

僕は『母性』の終盤に、単なる救済よりも「親子であっても別の人間になる」という方向性を感じました。

だから全部スッキリ解決するラストではありません。

むしろ少し引っかかる。

でも、この映画で綺麗な仲直りをやってしまったら、それまで描いてきた認識のズレが全部嘘っぽくなるんすよ。

その意味では、後味の悪さも含めて作品のテーマに合っています。

『母性』映画ひどい?

最後に、『母性』の映画は本当にひどい作品なのかをまとめます。

僕は、「ひどい」という感想が出る理由はめちゃくちゃ分かります。

暗い。

登場人物へ簡単に共感できない。

母娘の関係は観ていてしんどい。

同じ出来事の描写が変化するため、意味不明と感じる瞬間もある。

さらに原作と比較すると、映画では省略された要素もあるため、人物の背景が十分に伝わらないと感じる人もいるでしょう。

ここはあえて苦言を呈すると、視点が違うという構造そのものに乗れないと、115分ずっと面倒な家族関係を見せられている感覚になりやすいです。

高畑淳子さん演じる義母をはじめ、一部の人物表現もかなり強烈なので、人によってはリアルというより誇張に見える。

僕も「ここまで振り切るんかい」と思う瞬間はあります笑。

ただ、それだけで駄作と片付けるのも惜しいです。

この映画が面白いのは、ストーリー以上に「映像を信用している観客」を利用してくるところ。

同じ出来事をもう一度見せる。

でも少し違う。

その差によって、記憶は事実そのものではないと体感させる。

そして最終的には、「母性」という言葉さえ誰かが勝手に決めた物語なのではないかと疑わせてきます。

『母性』は、母親が娘を愛していたかを判定する映画ではありません。

「愛したつもり」と「愛された実感」の間に、どれほど大きな溝が生まれるのかを描いた映画です。

僕らも普段、「ちゃんと伝えた」「相手なら分かっている」と簡単に言います。

でも相手の頭の中へ入って確認することはできません。

家族でも、恋人でも、友達でも、仕事仲間でも同じです。

自分の中では善意100%だった言葉が、相手には傷として残ることがある。

逆に、自分がずっと傷つけられたと思っていた出来事にも、相手側には別の記憶が存在するかもしれない。

もちろん、それで傷ついた事実が消えるわけではありません。

ただ、自分から見えている世界だけが唯一の映像ではない。

『母性』はその当たり前なのに厄介な真実を、母と娘という最も距離が近い関係を使って見せています。

なので『母性』の映画がひどいと感じたなら、その不快感自体が作品について考える入口になっています。

気持ち悪かった。

意味不明だった。

怖かった。

母親に腹が立った。

娘が理解できなかった。

そのどれも、無理に「正しい感想」へ修正する必要はありません。

むしろ自分がどちらの視点を先に信用したのかを振り返ると、この映画は一段面白くなります。

『母性』は観終わった瞬間に答えが出る映画というより、あとから「あの場面、本当はどうだったんだろう」と頭の中へ戻ってくる映画。

そう考えると、検索欄に出てくる「ひどい」という一言だけでは片付けられない、かなり嫌らしくて面白い作品なんすよ。

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