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『バビル2世』はひどい?作画と各アニメ版の評価を検証

アニメ・漫画

皆さんは『バビル2世』という作品を知っていますか?

横山光輝さんによるSF・超能力漫画の代表作のひとつで、バビル2世とヨミ、そしてロデム・ロプロス・ポセイドンという三つのしもべを軸にした作品です。

ところが検索すると、『バビル2世』はひどい、作画が微妙、アニメ版の評価が低い、2001年版はどうなのか、OVAは原作と違うのか、ヨミや最終回はどんな評価なのかといった、かなり不穏な言葉が出てきます。

ただ、この作品でややこしいのは、原作漫画と1973年版アニメ、1992年のOVA、2001年版アニメが一緒くたに語られやすいことなんすよね。

どの『バビル2世』を見た人の感想なのかを切り分けないまま評判だけ読むと、原作そのものまで出来が悪い作品だったかのように見えてしまいます。

この記事では、作画、アニメ版、OVA、2001年版、原作との違いを見ながら、なぜひどいという評価が生まれたのかを映像オタク目線で掘っていきます。

  • 『バビル2世』がひどいと言われる理由
  • 1973年版・OVA・2001年版の違い
  • 原作やヨミが今も評価される理由
  • ロデム・ポセイドン・ロプロスの魅力

『バビル2世』はひどい?理由を検証

まず押さえておきたいのは、検索候補に出るひどいという言葉が、横山光輝さんの原作漫画だけを指しているわけではないことです。

むしろネット上の否定的な感想を追っていくと、アニメ化による絵柄の変化、展開の速度、キャラクターの追加、原作との距離感など、映像化された各バージョンへの不満がかなり混ざっています。

特に『バビル2世』は時代をまたいで何度も映像化されているので、自分が見た版によって作品像そのものが変わります。

そこを切り分けるだけでも、ひどいという評価の見え方はかなり変わってくるんすよ。

作画がひどい?

『バビル2世』でひどいという言葉と結びつきやすいポイントのひとつが作画です。

ただし、ここは単純に昔の絵だから古い、線が少ないから低品質、という話ではありません。

映像を見慣れている僕が気になるのは、どの時代の映像版でもキャラクターデザインの方向性が作品の印象を大きく変えていることです。

原作の横山光輝作品って、顔そのものはかなり簡潔です。

表情を描き込みまくるというより、人物の配置、目線、コマの流れ、敵味方の位置関係によって緊張を作るタイプなんですよね。

だから絵柄を現代的に美形化すると、見た目は華やかになっても、逆に横山作品特有の無機質さが薄れることがあります。

実際、OVA版については、作画そのものを評価する声がある一方で、原作ファンからは横山光輝らしい顔つきではなく、美形キャラクター寄りになりすぎているという反応も見られます。

これ、単なる懐古趣味ではないと思うんすよ。

キャラクターデザインが変わると、同じ台詞でも人物の体温まで変わって見えるからです。

昭和漫画の淡々とした顔で世界征服について語るヨミと、シャープな輪郭と華やかな目元を持つヨミでは、観客が受け取るジャンル感がまるで違います。

前者はSF活劇や怪奇漫画の匂いが残る。

後者はキャラクター同士の感情ドラマへ視線が向きやすくなる。

作画がひどいという評価は、絵が下手という意味だけではありません。

原作で持っていた乾いた雰囲気と、映像版のキャラクター表現が噛み合っていないという違和感まで含めて語られているケースがあります。

僕もアニメを見るとき、止め絵一枚より「その絵柄でどう芝居させているか」をかなり見ます。

作画ってスクリーンショットの綺麗さだけじゃないんすよ。

振り向く速度、目線を移すタイミング、攻撃を受けた身体の重さ、次のカットへ切り替える瞬間まで含めて作画です。

なので『バビル2世』の場合も、ネット上の一言だけを拾って作画崩壊アニメと決めつけるのは、ちょっと雑だと思っています。

アニメ版の評価

『バビル2世』のアニメを語るなら、まず1973年版を外せません。

全39話で放送されたこのテレビアニメは、原作の超能力バトルを子ども向けテレビアニメとして再構成した作品です。

(出典:東映アニメーション『バビル2世』作品ラインナップ)

1973年版への感想を見ると、人工衛星を巡る争奪戦や防衛隊との共闘など、一話単位の冒険活劇として面白かったという声があります。

ここは昭和テレビアニメならではですね。

一本の巨大な物語だけを高速で追うのではなく、毎週テレビの前に座った子どもが、その30分で危機と解決を味わえる設計になっています。

一方で、原作漫画と比べると人間関係や家族的な要素が前に出ているため、原作の無骨な超能力戦を期待すると印象が変わります。

この違いを改悪と受け取るか、テレビアニメとして必要な翻訳と受け取るかで評価が割れるところです。

バージョン印象賛否が出やすい点
1973年版テレビ向けの冒険活劇原作との人物描写の違い
1992年OVA美形化した再構築絵柄・展開速度・追加要素
2001年版現代化したリメイク作画・テンポ・原作改変

僕はこういう旧作アニメを見るとき、現在のテレビシリーズと同じ物差しだけでは見ないようにしています。

セル画時代の作品は、毎カットをヌルヌル動かすより、止め、寄り、引き、効果線、音楽、台詞の間で画面を成立させています。

今のアニメに慣れたZ世代が見るとテンポの違いに驚くけど、そこを越えると「画面をどう省エネしながら成立させるか」という技術が逆に面白く見えてくるんすよ。

同じように作画や原作再現度だけで作品の価値が決まらない例については、『サカモトデイズ』のアニメと原作の違いを検証した記事でも触れています。

2001年版

2001年版『バビル2世』は、原作をそのまま再現するというより、当時のテレビアニメとして再構築する方向へ踏み込んだ作品です。

そして、この版こそひどいという評価と結びつくことがあります。

否定的な感想で目立つのは、作画への不満、全体の動きが重く感じられること、原作からアレンジされた人物関係への違和感です。

学園要素や新たな人物の配置など、原作を知っている人ほど「そこを足すんだ?」となりやすい。

ぶっちゃけ、リメイク作品で一番危ないところです。

原作ファンが見たいものと、制作側が新しい視聴者に届けたいものって、必ずしも一致しません。

制作側からすれば、何十年も前の漫画をそのまま映像化するより、その時代の視聴者が入りやすい学校生活や人間関係を追加したくなる。

でも原作ファンからすると、『バビル2世』で見たいのはそこじゃない、となる。

このズレこそ2001年版の評価を考えるうえで重要です。

原作の中心には、巨大な組織を率いるヨミと、三つのしもべや超科学を持つバビル2世による、規模のデカい知略戦があります。

そこへ学園ドラマ的な感触が入ると、作品の重心そのものが変わります。

ただし、現代的な設定を足したこと自体が失敗なのではありません。

問題は、追加した要素が原作の魅力と掛け算になっているかどうかです。

僕はリメイクを見るとき、原作と違うことより、なぜ違わせたのかが画面から伝わるかを気にします。

仕事でも似たことがあって、先輩から受け継いだ方法を今風に変えること自体は悪くない。

でも変更する理由が共有されていないと、「前の方が良かった」で終わるんすよね。

2001年版への賛否も、かなりそれに近いです。

OVA版の評判

1992年のOVA版は、評価が割れやすい『バビル2世』の中でもかなり興味深い存在です。

ネット上では、作画はまずまず良いという反応がある一方で、原作の横山光輝らしさから離れた絵柄、美形キャラクターの多さ、展開の速さを気にする声もあります。

OVAという形式なので、テレビシリーズのように何十話も使って世界観を積み上げる余裕はありません。

このため物語の導入、人間関係、敵側の人物、超能力バトルをかなり短い時間へ詰め込む必要があります。

ここで起きるのが、知っている人には速くて気持ちいいけど、初見には説明が足りないという現象です。

映像作品では情報量が多ければ親切になるわけじゃないんすよ。

例えばキャラクターが登場して、名前を呼ばれて、能力を使って、敵味方の立場を説明され、そのまま戦闘へ入る。

情報自体は全部出ていても、観客がその人物を好きになる時間がなければ、ドラマとしては薄く感じます。

OVA版への「展開が早すぎる」という不満は、まさにそこだと思っています。

場面が足りないというより、出来事と出来事の間に感情が定着する時間が少ないんです。

一方で、OVAならではのスピード感を好む人もいます。

原作を知っていて設定説明を必要としない人なら、超能力バトルへ早めに入る構成をテンポが良いと受け取ることもできます。

そして個人的に面白いのが、ポセイドンのデザインを評価する反応が複数あることです。

人物の美形化には賛否が出たのに、巨大メカ側の現代化は比較的受け入れられている。

つまりファンは変化そのものを嫌っているわけではなく、原作で何を魅力として受け取っていたかによって許容できる変更が違うんですよね。

原作との違い

ここまで読んでくると、『バビル2世』がひどいと言われる理由のかなりの部分が原作漫画との距離にあることが見えてきます。

横山光輝さんの原作は全12巻で刊行され、バビル2世とヨミによる攻防を中心に進みます。

原作で面白いのは、超能力者同士が派手な必殺技を撃ち合うだけの漫画ではないことです。

相手の居場所を探り、能力の限界を読み、しもべをどこへ配置するか考え、組織と個人が情報戦をする。

つまり見た目は超能力バトルだけど、かなりの割合で戦略ゲームなんすよ。

ヨミも一度倒せば全部終わるタイプの敵ではありません。

失敗しても別の方法を試し、資金、人員、基地、科学力を使って盤面を作り直してくる。

バビル2世側も万能ではなく、超能力を使えば負担がある。

この制約があるから、能力の大きさより「いつ使うのか」が重要になります。

ここをアニメで再現するのは意外と難しいです。

漫画なら地図、台詞、コマの切り替えを読者が自分の速度で追えます。

ところが映像では編集側が時間を決めます。

説明を短くすると単純なバトルに見え、長くするとテンポが止まる。

これは漫画原作アニメ全般の難所で、『亜人』のアニメが原作と違う理由を扱った記事でも似た問題があります。

漫画で面白かった情報戦や内面を映像へ移すとき、何を削って何を画面へ置き換えるかで作品の手触りが変わります。

なので原作との違いを見るときは、エピソードが同じかどうかだけでは足りません。

原作の魅力だった知略、孤独、超能力の制約、ヨミとの対比が、映像では何に置き換えられているのかを見ると各アニメ版の個性が分かりやすいです。

『バビル2世』がひどい説を再評価

ここからは少し視点を反転させます。

ひどいと言われる部分を確認したうえで、それでも『バビル2世』という作品が何十年も名前を残している理由を見ていきます。

僕がこの作品で一番すごいと思うのは、設定を説明すると古典的なのに、キャラクター同士の関係へ目を向けると今でも妙に生々しいことです。

特にヨミとバビル2世の関係、そして三つのしもべの役割には、後の能力バトル作品にも通じる面白さがあります。

ヨミの魅力

『バビル2世』を語るうえで、ヨミをただの悪役として処理するのはめちゃくちゃもったいないです。

世界征服を目指す敵であることは間違いないんですが、作品を読み進めるほど単純な悪の記号ではなくなっていきます。

バビル2世とヨミは、完全に別種の存在というより、似た資質を持ちながら選んだ道が違う人物として置かれています。

だから戦いがヒーロー対怪人で終わらない。

「同じ力を持っていたら、自分は本当に主人公側を選べるのか?」という嫌な問いが残ります。

ここ、Z世代の僕には意外と刺さるんすよ。

学校でも仕事でも、能力がある人ほど、その能力を誰のために使うかを問われます。

結果を出せる人が周囲を支配することもできるし、逆に周囲を活かすこともできる。

超能力という大げさな設定を剥がすと、バビル2世とヨミの対立ってかなり現実的です。

しかもヨミは、負けたからといって観客が完全に爽快になれる敵ではありません。

読者の感想でも、ヨミを憎み切れないからこそ、勝敗が決まっても単純な「やったぜ」で終われないという反応があります。

この後味こそ、僕は『バビル2世』の大きな財産だと思っています。

最近の作品なら敵側の悲しい過去を長い回想で見せて同情させる方法もあります。

でも『バビル2世』はもっと乾いている。

長々と「実はこんな事情が」と説明するより、戦いを繰り返すうちにヨミという人物への感情が少しずつ変わる。

この距離感、今見るとむしろ新鮮です。

最終回の結末

最終回については、これから原作を読む人の楽しみを奪わないため、具体的な攻防や決着方法には触れません。

ただ、ひとつだけ言えるのは、『バビル2世』の終盤は単純な勧善懲悪の爽快感だけを狙っていないということです。

バビル2世とヨミの戦いは、能力の数字を比べて大きい方が勝つような決着ではありません。

それまでに積み重ねてきた消耗、判断、相手への理解が関わってきます。

なので最後まで読むと、勝敗以上に「この二人はなぜここまで戦い続けたんだろう」という感覚が残るんすよね。

読者の感想に、ヨミを嫌い切れないため手放しで喜べず、少し切ない気持ちになるというものがあるのも分かります。

主人公が勝てば気持ちいい、敵が倒れれば全部解決という構造から少し外れているからです。

僕はこういう終わり方がかなり好きです。

現実の人間関係も、相手に勝った瞬間に全部スッキリすることってほぼないじゃないですか。

言い争いで正論を通しても、あとから「そこまで言わなくてもよかったかも」と残る。

勝利と納得は別物なんすよ。

『バビル2世』の終盤にも、その微妙なズレがあります。

だから派手な超能力漫画なのに、最後に残るのは意外と人間臭い余韻です。

アニメと原作で終盤の印象が変わる作品については、『ぼくらの』のアニメがひどいと言われる理由と原作との差も近いテーマとして面白いです。

ロデムの活躍

三つのしもべの中でも、ロデムはキャラクターとしての人気がかなり高い存在です。

黒豹の姿が印象的ですが、ただ主人公の横で戦うマスコットではありません。

ロデムの面白さは、戦闘要員と情報要員の境界がないことです。

敵へ接近する、状況を探る、主人を守る、必要なら前線にも出る。

つまりRPGでいえば、一人で偵察役と護衛役を兼ねているような存在なんすよ。

しかもロデムだけを見ても、『バビル2世』が単純な巨大ロボット漫画ではないことが分かります。

ポセイドンのような巨大戦力がある一方で、敵の懐へ入るには小回りの利く存在が必要になる。

能力が違う三体を状況によって使い分けるため、バビル2世の戦いには自然と戦術が生まれます。

僕が好きなのは、こういう「能力の違いが物語の都合ではなく作戦になる」作品です。

何でもできる一体がいれば話は簡単です。

でも簡単になるほどドラマは減る。

空を担当する存在、海や地上で圧力をかける存在、潜入できる存在と役割を分けることで、作者は毎回違う危機を作れます。

ロデムは便利だから人気なのではなく、バビル2世の戦い方そのものを頭脳戦に変える存在です。

三つのしもべを単なる必殺兵器ではなく役割の違う駒として配置したことが、この作品の時代を超えた面白さにつながっています。

ポセイドン

ポセイドンは三つのしもべの中で、最も巨大兵器らしい見た目を持っています。

今の感覚で見ると「主人公側が最初からこんなの持っていていいの?」となるくらい豪快です笑。

ただ、ポセイドンの魅力はデカいロボットが暴れることだけではありません。

ロデムが潜入や護衛なら、ポセイドンは画面に出た瞬間に戦場の縮尺そのものを変えます。

人間同士の超能力戦だった場所へ巨大な存在が入ると、カメラは人物の表情だけを追えなくなる。

引きの画が必要になり、建物や地形との比較が生まれます。

これが映像的にはめちゃくちゃ大事です。

キャラクターの顔アップばかりで戦う作品は、能力が派手でも世界が小さく見えることがあります。

巨大メカが一体いるだけで、作品に地理が生まれるんすよ。

OVA版についてもポセイドンの再デザインを評価する反応があります。

人物の美形化には違和感を持つ原作ファンでも、ポセイドンのようなメカの更新には好意的な場合がある。

ここがリメイクを考えるうえで面白いポイントです。

原作を現代化するとき、全部を変える必要はない。

人物のシルエットは原作らしさを残し、メカだけディテールを増やす方法もある。

逆にキャラクターだけ現代的にしてメカが昔のままだと、世界観の年代がバラバラに見えることもあります。

だからポセイドンを見ると、リメイクって「古いものを新しく描き直す仕事」ではなく、何を残して何を更新するか選ぶ仕事なんだと分かります。

ロプロス

ロプロスは巨大な怪鳥型のしもべです。

三体の中では空を担う存在で、バビル2世を地上の戦いから一気に広い空間へ連れ出します。

ロプロスがいることで、『バビル2世』の舞台は秘密基地の一室だけに閉じません。

都市、砂漠、山岳地帯といった広い場所へ主人公を移動させやすくなり、物語自体のスケールも上がります。

これ、設定として地味にめちゃくちゃ上手いんすよ。

少年漫画で世界規模の敵を出したとき、一番困るのは主人公の移動です。

敵が世界中に基地を持っているのに主人公が毎回普通の交通機関で向かっていたら、テンポが一気に生活感へ寄ります。

ところがロプロスがいることで、その問題を作品世界の能力だけで解決できます。

しかも飛行能力を持つだけなら乗り物でも成立するのに、あえて怪鳥型なのがいい。

ポセイドンの機械感、ロデムの生物感、ロプロスの神話的なシルエットが並ぶことで、三つのしもべが同じカテゴリに見えないんですよね。

ここには『バビル2世』特有の、SFと古代文明と怪奇ものがごちゃっと同居する魅力があります。

普通なら世界観を統一するためにデザインルールを揃えたくなるところです。

でも、この作品はむしろ異質なものが並んでいるからバベルの塔の超科学が人間には理解し切れない感じになる。

今の映像作品って設定資料が洗練されすぎて、全部のメカが同じメーカー製みたいに見えることもあります。

それはそれで気持ちいい。

ただ、『バビル2世』みたいな「なんで黒豹と怪鳥と巨大ロボなんだよ」という雑多さには、理屈だけでは作れないロマンがあります。

『バビル2世』はひどい?

結論として、『バビル2世』そのものをひどい作品と片付けるのはかなりもったいないです。

一方で、ひどいという感想が出てくる理由まで否定する必要もありません。

特に映像版では、作画の好み、原作から離れたキャラクターデザイン、追加された人物関係、短い尺による駆け足感など、原作ファンが引っかかりやすい部分があります。

1992年OVAと2001年版については、原作らしさを求める人ほど違和感が出やすいでしょう。

しかし、それと横山光輝さんの原作が持つ面白さは分けて考えた方がいいです。

バビル2世とヨミは、能力バトルでありながら相手の資源と行動を読む知略戦になっている。

ロデム、ポセイドン、ロプロスは単なる三体の必殺兵器ではなく、それぞれ違う用途を持っています。

そしてヨミとの関係には、敵を倒して終了では片付かない妙な寂しさがある。

僕が特に面白いと思うのは、1970年代の作品なのに、現代の能力バトル漫画を見る感覚で読み直しても「この構造、普通に今でも使えるやん」と感じるところです。

能力には負担があり、情報を集め、相手の出方を読み、使える戦力を配置する。

設定だけ抜き出したら、かなり現代的なんすよ。

『バビル2世』がひどいという検索結果だけで原作まで避ける必要はありません。

むしろ原作、1973年版、OVA、2001年版を別作品に近い感覚で見比べると、それぞれの時代が『バビル2世』をどう解釈したのかが見えてきます。

僕自身、古い作品を見るときに一番避けたいのが「今の作品より映像が古いからダメ」という見方です。

半世紀前の作品に現在と同じ作画枚数や撮影処理を求めても意味がない。

それより、その時代の制限の中で何を見せようとしたのかを見る方が、映像オタクとしては圧倒的に面白いです。

同時に、リメイクだから原作ファンは文句を言うな、という考えにも賛成できません。

原作のどこを愛していたかによって、変更が刺さる場所は変わります。

だから作画が嫌だった、キャラクターの雰囲気が違った、テンポが合わなかったという感想も立派な視聴体験です。

ネットのひどいという二文字は、その細かな違和感を全部つぶしてしまいます。

でも中身を開いてみると、作画なのか、原作改変なのか、OVAの尺なのか、2001年版の現代化なのかで話はまったく違う。

そこまで見て初めて、『バビル2世』という作品の本当の評価が見えてきます。

古いから名作なのでも、批判があるから駄作なのでもありません。

ひどいと言われた場所まで含めて見比べると、なぜこの作品が何度もアニメ化され、今もロデムやヨミの名前が語られているのかが分かってくる。

そこが『バビル2世』を今から触る一番面白いポイントだと思います。

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