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『斉木楠雄のΨ難』実写はひどい?酷評の理由を解剖

アニメの実写化

皆さんは『斉木楠雄のΨ難』という作品を知っていますか?

原作漫画やアニメが好きな人ほど、実写映画を検索したときに出てくるひどいという言葉が気になったはずです。

僕も漫画やアニメの実写化を見るときは、キャストが似ているかだけでなく、原作のテンポや笑いを実写という別の映像表現へどう翻訳しているのかをかなり気にします。

特に『斉木楠雄のΨ難』は、斉木の心の声、高速のツッコミ、濃すぎるキャラクター、漫画だから許されるビジュアルが笑いの一部になっている作品です。

つまり、そもそも実写化の難易度がかなり高いんすよ。

実際に実写版について調べると、原作との違い、アニメと比較したテンポ、キャスト、くぼやす役、顔芸、コスプレ感、福田雄一監督の演出などが賛否の中心になっています。

しかし、ネット上の感想を見ていくと単純に駄作として片付けられているわけではなく、橋本環奈さんや吉沢亮さんをはじめとした俳優陣の振り切った演技や、福田作品らしいコメディを高く評価する声もあります。

そこで今回は、年間数百本のアニメや映画を観ている僕の目線から、なぜ『斉木楠雄のΨ難』の実写がひどいと言われるのかを、原作再現だけではなくカット、間、演技、キャラクター設計まで踏み込んで解剖していきます。

  • 実写版がひどいと言われる理由
  • 原作やアニメとの決定的な違い
  • キャストと福田雄一演出への評価
  • 酷評されても支持する人がいる理由

『斉木楠雄のΨ難』実写がひどい理由

『斉木楠雄のΨ難』の実写版に対する不満を追っていくと、単純にキャストが似ていないからという話だけではありません。

むしろ大きいのは、原作やアニメで完成していた笑いのリズムを実写へ移したことで、同じギャグでも受ける印象が変わったことです。

ここでは原作との違い、アニメとのテンポ差、顔芸、衣装、映画全体の間という5つの部分から見ていきます。

原作との違い

まず僕がいちばん大きいと思っているのが、斉木という主人公の見せ方そのものが原作と変わっていることです。

原作の斉木は、周囲にツッコミを入れまくっているのに、外から見るとほとんど動じていないという二重構造がめちゃくちゃ面白いキャラクターです。

頭の中はうるさい。

でも外側は無表情。

このギャップ自体が『斉木楠雄のΨ難』の笑いを成立させています。

ところが実写映画では、映像作品として観客に情報を伝える必要があるため、斉木の反応を原作より外側へ出す場面が増えています。

その瞬間、原作ファンが知っている斉木の面白さから少しズレてしまうんですよね。

原作ファンが感じる違和感は、ストーリー変更よりも斉木の存在感の変化がかなり大きいと僕は感じます。

また、映画は限られた上映時間の中で複数のキャラクターを登場させなければなりません。

そのため、一人ひとりが持っていた普段の顔や人間関係よりも、そのキャラクターを象徴するクセが前に出ます。

照橋なら完璧美少女と妄想。

海藤なら中二病。

灰呂なら熱血。

窪谷須なら元ヤン。

短時間で人物を理解してもらう方法としては理にかなっていますが、原作を知っている側からすると「そこだけじゃないんだよな」となるんです。

原作との差で重要なのは設定変更の数ではありません。

キャラクターの魅力をどの部分から見せるかという優先順位が変わったことで、同じ人物でも違う印象になっています。

これは漫画実写化でよく起こる問題です。

見た目だけ原作に近づけても、その人物が面白く見える仕組みまで移植できなければ、観客には別キャラっぽく映ります。

『斉木楠雄のΨ難』は特に、その難しさが露出しやすい作品だったんすよ。

アニメと比較

実写版が厳しく見られやすいもう一つの理由が、映画より先にアニメ版のイメージが視聴者の中で完成していたことです。

アニメ版『斉木楠雄のΨ難』って、冷静に見ると会話の速度がかなり異常です。

一つのギャグに長く滞在せず、ツッコミが終わった瞬間には次のボケが始まる。

そのスピードによって、多少ぶっ飛んだ展開でも視聴者が考え込む前に笑いへ変換されます。

しかもアニメなら、カットを一瞬で切り替えたり、表情を極端に崩したり、背景を消したり、モノローグと現実の会話をほぼ同時進行させたりできます。

この作品とアニメという媒体、相性が良すぎるんすよ。

一方で実写は、俳優がその空間に実在している以上、ボケのあとにリアクションが残ります。

顔を見せる時間も必要ですし、台詞を発した人物から反応する人物へカメラを切り返す時間も発生します。

ほんの1秒や2秒の差ですが、コメディではこの差がデカい。

僕はアニメと実写を続けて観ると、同じ種類のギャグでも体感速度がかなり違うと感じます。

アニメはボケが積み重なって雪崩になるのに対して、実写は俳優一人ひとりの芝居を見せるコントに近い。

だから原作やアニメの高速ギャグを期待すると、実写版を観た瞬間に「あれ、なんか違う」となるわけです。

僕のサイトではアニメ実写化の成功例と評価された理由も紹介していますが、実写化で大事なのは原作をそっくりコピーすることではありません。

その媒体で成立していた魅力を、実写の映像文法へ置き換えられるかどうかです。

『斉木楠雄のΨ難』の場合、その翻訳先として選ばれたのが福田雄一監督流のコントだった、と見るとかなり理解しやすくなります。

顔芸が多い

実写版を語るときに避けられないのが、顔芸の多さです。

特に橋本環奈さん演じる照橋心美を中心に、漫画的な感情を人間の表情へ無理やり出力したような芝居が何度も登場します。

ここはネット上でも評価が真っ二つです。

振り切っていて面白いという人もいれば、原作の照橋はそこまで顔で笑わせるキャラクターではないと感じる人もいます。

僕はこの問題、演技力の話ではないと思っています。

むしろ俳優陣は相当頑張っている。

問題は、何を笑いの中心に置いたのかなんですよね。

原作の照橋の面白さって、外側では完璧な美少女を維持しながら、内心ではかなり人間臭いことを考えている落差にあります。

つまり本来は「見せないこと」が笑いにつながっているキャラクターです。

ところが実写版では、その内面を視覚的な笑いへ変換するために表情を大きくします。

すると観客には分かりやすくなる一方で、完璧な外面と本音の落差が小さくなります。

これが原作ファンから「照橋さんが違う」と言われやすい理由の一つでしょう。

顔芸そのものが悪いわけではありません。

ただ、もともと内面と外面の落差で笑わせていた人物に表情のギャグを足すと、キャラクターの面白さそのものが別方向へ変わります。

福田作品では俳優が美男美女のイメージを自分からぶっ壊すことが笑いになる場合があります。

『銀魂』の実写版では、その破壊力が作品世界とかなり噛み合っていました。

でも『斉木楠雄のΨ難』は、斉木を中心とした冷めた観察者目線が笑いの土台です。

全員の芝居を派手にすると、観察する側と暴れる側の温度差まで縮まってしまいます。

ここは僕も、ぶっちゃけ盛りすぎに感じる場面があります。

コスプレ感

実写化作品につきまとう言葉がコスプレ感です。

『斉木楠雄のΨ難』は、その中でもかなり逃げ場のない作品だと思います。

だって主人公がピンク髪で頭に謎の装置を付けて緑色の眼鏡をかけていますからね。

燃堂も特徴的な髪形と顎を持っていますし、海藤も青髪です。

これを現実に馴染ませようとした時点で負けるタイプのビジュアルなんすよ。

そのため実写版は、現実っぽく作り替えるより原作の外見へかなり寄せる方向を選びました。

これは僕、判断そのものは嫌いじゃないです。

中途半端に茶髪の普通の高校生へ変更したら、『斉木楠雄のΨ難』である意味まで薄れてしまいます。

原作者の麻生周一先生自身も、実写化に際して髪色などを原作へ寄せることへの不安に触れながら、キャストによって奇抜な外見が成立した趣旨のコメントをしています。

ただし映画になると、衣装の質感、髪の毛の素材、照明の当たり方まで実物としてカメラに記録されます。

漫画なら記号として受け入れられるものが、実写では物体になる。

ここが難しい。

特に明るい照明の学園セットで原色系の髪や制服が並ぶと、一気に舞台衣装っぽく見える瞬間があります。

コスプレ感の正体は原作再現度の低さではなく、二次元の記号が三次元の物質になった違和感なんです。

むしろ忠実にすればするほどコスプレっぽくなる作品もあります。

このジレンマは『斉木楠雄のΨ難』だけではなく漫画実写化全般の難所で、僕が実写化がひどいと言われた作品を比較した記事でも何度も感じる部分です。

テンポが悪い

実写版への否定的な感想の中では、テンポへの不満もかなり目立ちます。

ここは映像として見ると面白いポイントです。

単純に編集が遅いという話ではなく、一つのギャグに滞在する時間が原作やアニメより長いんですよ。

福田雄一監督の笑いって、人物が変なことを言ったあとに生まれる微妙な沈黙や、俳優同士が耐え切れなくなるような空気まで含めて笑わせるタイプです。

佐藤二朗さんやムロツヨシさんが登場する作品を想像すると分かりやすいと思います。

台詞そのものだけではなく、その場に漂う妙な時間が面白い。

ところが『斉木楠雄のΨ難』の原作は逆で、一個のボケに構っている暇がありません。

斉木が心の中で処理した瞬間に次の災難が来ます。

つまり福田監督の間と、『斉木楠雄のΨ難』の高速処理型ギャグが、似ているようで実はかなり違うんです。

ここが映画全体の体感速度に影響しています。

ネットの感想で「笑わせようとしている感じがする」「ギャグが寒い」といった反応が出るのも、この間が合わなかった人だと思います。

笑いって恐ろしいもので、同じ台詞でも0.5秒長く見せるだけで印象が変わりますからね。

逆に福田作品の間が好きな人からすると、この長さこそ面白さになります。

テンポへの評価が割れるのは、作品の完成度だけではなく、観客がどの種類のコメディを期待しているかもかなり関係しています。

僕も友人とコメディ映画を観ていて、同じ場面で自分だけ笑って周りが完全に無反応だった経験があります。

あの空気、マジで地獄です笑。

でも逆に考えると、それくらい笑いの間は個人差が大きい。

だからテンポが悪いという感想も、福田監督らしい間が面白いという感想も、どちらも成立するんですよ。

『斉木楠雄のΨ難』実写はひどいだけ?

ここまで酷評される理由をかなり細かく見てきましたが、実写版をひどいの一言だけで終わらせると、この映画の面白い部分まで見落とします。

実際にはキャストを評価する声も多く、特定のキャラクターや福田雄一監督のコメディが刺さった人からはかなり好意的に受け入れられています。

ここからは、実写版だからこそ成立した部分と、評価が割れる本当の理由を見ていきます。

キャストの評価

実写版のキャストを見ると、かなり豪華です。

斉木楠雄役は山﨑賢人さん、照橋心美役は橋本環奈さん、海藤瞬役は吉沢亮さん、窪谷須亜蓮役は賀来賢人さんが担当しています。

さらにムロツヨシさん、佐藤二朗さん、内田有紀さん、田辺誠一さんなども出演しています。

脚本と監督は福田雄一さんです。

(出典:ソニー・ピクチャーズ公式)

このキャストについては、ネットでも完全否定という雰囲気ではありません。

むしろ俳優個人の芝居は面白かったという感想がかなりあります。

僕も特に海藤は実写向きだったと思っています。

海藤って、本人だけは大真面目なのに周囲から見ると中二病というキャラクターなので、人間が本気で演じること自体がギャグになるんですよ。

吉沢亮さんみたいな端正な俳優が全力で中二病をやることで、その落差まで笑いになります。

橋本環奈さんについても同じです。

照橋は完璧美少女という設定なので、まず画面に出た瞬間に説得力が必要です。

そのうえで、そこから表情を崩す。

顔芸をやりすぎと感じるかは別として、普通なら守りたくなるビジュアルイメージを自分から破壊していく姿勢はすごいです。

山﨑賢人さんの斉木も、周囲が大騒ぎしている場面でテンションを上げずに立っていなければならない難役です。

コメディでは目立つ芝居より、周囲を受ける芝居の方が難しい場合があります。

斉木はまさにそれ。

全員が100のテンションで暴れている中、一人だけ20程度に保ち続けなければ作品の軸が消えます。

なので、映画への不満とキャストへの評価は分けて考えた方がいいです。

ネット上でも「作品全体は合わなかったけれど俳優は頑張っていた」という感想は少なくありません。

この二つをごちゃ混ぜにすると、実写版がなぜ賛否両論なのかが見えなくなります。

くぼやす役

関連検索でかなり目立つのが、くぼやすこと窪谷須亜蓮です。

実写版では賀来賢人さんが演じています。

ネット上ではビジュアルやキャラクターの雰囲気が原作と違うという意見も見かけます。

原作の窪谷須の面白さは、単なる不良キャラではありません。

本当は筋金入りの元ヤンなのに、転校をきっかけに普通の高校生として生きようとしている。

でも些細なことで昔の血が騒いでしまう。

この「隠そうとしている人物像が漏れてしまう」構造が面白いんです。

実写映画では上映時間の都合もあり、この二面性を何段階にも分けて見せる余裕がありません。

そこで元ヤンとしての分かりやすい面が早い段階から前へ出ます。

結果として、原作ファンには「普通になろうとしている窪谷須」というより「普通の格好をした不良」に見えやすくなっています。

ここは俳優が似ているかどうかより、脚本上どちらの人格を前に置いたかの問題です。

僕は窪谷須を見ていると、就活とか新しい職場で「ちゃんとしている自分」を見せようとしていた時期をちょっと思い出します。

人間って環境が変わったからといって、過去の自分を完全には消せないじゃないですか。

イラッとした瞬間に昔の口調が出たり、親しい人の前だけ素が戻ったりする。

窪谷須の面白さって、実はそういうめちゃくちゃ人間臭い部分にあります。

だからこそ、元ヤン要素だけを派手に見せると魅力が半分になる。

賀来賢人さんの芝居が悪いというより、映画という尺の中では内側の葛藤まで見せる時間が足りなかったんだと思います。

福田監督の演出

この映画を語るうえで、福田雄一監督の存在は絶対に外せません。

実写版『斉木楠雄のΨ難』は、原作をそのまま現実へ持ってきた作品というより、原作を福田雄一監督のコメディ文法へ通した作品として見る方がしっくりきます。

特徴的なのが、俳優の個性をキャラクターへかなり持ち込む演出です。

ムロツヨシさんや佐藤二朗さんの場面では、原作キャラクターを見ているというより「福田作品でおなじみの俳優が暴れている」という感覚になる瞬間があります。

ここが好きな人にはたまらない。

でも原作ファンにはノイズになる場合があります。

『銀魂』では、この方法がかなりハマっていました。

そもそも『銀魂』自体がメタネタ、パロディ、キャラクター崩壊まで全部飲み込む作品だからです。

俳優本人のイメージが画面へ侵入してきても、それすらギャグとして成立する。

一方の『斉木楠雄のΨ難』は、変人だらけの世界を斉木が冷めた目線で観察することが笑いの基準になっています。

全員が俳優として前へ出すぎると、その基準点が揺れてしまいます。

だから「福田監督なのになぜ銀魂ほどハマらないのか」という疑問には、作品側の構造が違うからと答えたいです。

監督の作家性が悪いわけでも、原作のギャグが映像向きではないわけでもありません。

両方の笑いが似て見えるのに、実際には違う。

そこが面白いんすよ。

『銀魂』はキャラクターが映像の外側まで暴れても成立します。

『斉木楠雄のΨ難』は、その暴走を斉木が一歩引いて観察することで成立します。

この違いが、同じ福田雄一監督作品でも受け取り方が変わる理由です。

個人的には、もう少し斉木側へカメラの視点を固定して、周囲の人物を「斉木から見た変人」として撮っていたら、原作の温度感へさらに近づいた気もします。

とはいえ、それをやると今度は福田作品らしい俳優の爆発力が薄くなる。

この映画、思っている以上に難しい綱渡りをしているんですよね。

面白いとの声

ここまで読むと散々な映画に聞こえるかもしれませんが、実際には「普通に笑えた」「何度も観た」「キャストに不満がない」といった好意的な感想もあります。

原作ファンの中にも実写版をかなり楽しんでいる人はいます。

この事実は無視できません。

では、なぜ同じ映画を観てここまで評価が変わるのか。

僕は原作再現を期待しているのか、福田コメディを期待しているのかの違いがかなり大きいと思っています。

前者で観ると、キャラクターの性格変更、斉木の喋り方、照橋の見せ方、テンポなどが次々に気になります。

後者で観ると、豪華俳優が全力でバカなことをやっているコメディとして普通に楽しめます。

特に原作未読の人は、比較対象がありません。

「本来の照橋はこうじゃない」「窪谷須はもっとこういう人物だ」という補正がないので、映画だけのキャラクターとして受け入れやすい。

逆に長年原作やアニメを観てきた人ほど、自分の中に完成した正解があります。

その正解との差が違和感として積み上がります。

これって人間関係でも同じなんですよね。

昔から知っている友達が急に雰囲気を変えると、周囲は「前の方が良かった」と言いがちです。

でも新しく知り合った人には、その姿が最初から本人です。

実写化もそれに近くて、原作ファンは変化として見るけれど、初見の観客は完成品として見る。

スタート地点が違います。

だからレビューサイトで評価が割れていること自体、この映画ではかなり自然です。

万人に同じ笑いを届けるタイプではありません。

でも刺さった人にはめちゃくちゃ刺さる。

そこは「ひどい」という検索候補だけを見ていると分からない部分です。

『斉木楠雄のΨ難』実写はひどい?

結局、『斉木楠雄のΨ難』の実写がひどいと言われる最大の理由は、原作再現度だけではありません。

原作が持っていた笑いの仕組みと、映画版が採用した笑いの仕組みが違うからです。

原作やアニメでは、斉木の高速ツッコミ、外面と内面の落差、短いカットで畳みかける展開が笑いを作っています。

一方の実写映画では、俳優の表情、間、顔芸、アドリブ感、福田雄一監督作品らしいコント的な空気が前に出ます。

同じキャラクターと設定を使っていても、笑わせ方が違います。

そのため原作やアニメの斉木をそのまま期待すると、斉木が違う、照橋が違う、窪谷須が違う、テンポが違う、と違和感が連続します。

ここはネット上の酷評にもかなり納得できる部分です。

僕自身、特にキャラクターの内面を顔芸へ置き換えてしまった部分については、もう少し抑えても良かったんじゃないかと思っています。

ただ、それだけで映画全体を失敗扱いするのも違います。

山﨑賢人さん、橋本環奈さん、吉沢亮さん、賀来賢人さんをはじめとしたキャストは、漫画的な人物を生身の身体で成立させるためにかなり振り切っています。

普通の学園コメディでは絶対に出てこない芝居の連続です。

そこに福田監督特有の間がハマった人からすると、めちゃくちゃ楽しい映画になります。

ひどいと言われる理由は確かにあります。

しかし、その多くは技術的に雑だからというより、原作とは別のコメディへ変換したことで生まれた違和感です。

原作再現を求めるか、福田雄一監督版の『斉木楠雄のΨ難』として観るかで印象はかなり変わります。

漫画の実写化って、「原作通りなら成功」というほど単純じゃないんですよ。

二次元でしか成立しない表情もあれば、アニメだから成立するテンポもある。

逆に、生身の俳優だからこそ笑える瞬間もあります。

『斉木楠雄のΨ難』実写版は、その変換作業の難しさがものすごく分かりやすく表面に出た作品だと僕は見ています。

だから検索候補のひどいだけを見て避けるより、自分が原作再現を求めているのか、俳優の振り切ったコメディを観たいのかを考えてから触れるのがおすすめです。

少なくとも、ネットで酷評されているだけの作品として片付けるには、語れるポイントが多すぎます。

原作と実写の間で何が変わったのかを比べながら観ると、漫画実写化というジャンルそのものの難しさまで見えてくる一本です。

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