皆さんは『孔雀王』という作品を知っていますか?
1980年代から続く伝奇漫画の代表格で、密教や神話、妖怪、オカルトを大胆に混ぜ合わせた荻野真先生のシリーズです。
ところが作品について調べると、『孔雀王』の打ち切り理由をはじめ、初代は完結したのか、『孔雀王 退魔聖伝』や『孔雀王 曲神紀』はなぜ突然終了したのか、編集部との確執は本当なのかと、不穏な話がかなり出てきます。
さらに作者の死亡と連載終了の関係、『孔雀王 ライジング』や『孔雀王 戦国転生』の扱い、シリーズの続編はもう存在しないのかまで話が混ざっているんすよね。
特にややこしいのが、「孔雀王」という名前で一括りにされているものの、初代、退魔聖伝、曲神紀、ライジングでは終了した事情がそれぞれ違うことです。
初代だけを見て打ち切り作品と判断するのも違いますし、逆にシリーズ全部が予定通り完結したと考えるのも実態とはズレます。
僕もこういう長寿シリーズを追う時は、単に最終巻が出たかではなく、物語のカメラが最後まで被写体を追えているのか、それとも撮影途中で突然レンズキャップをされたように終わっているのかをかなり気にします。
この記事では重要なネタバレを避けながら、各シリーズの終了事情を分け、『孔雀王』の打ち切り理由についてどこまで確認できるのかを掘り下げていきます。
- 初代『孔雀王』が打ち切りなのか
- 『退魔聖伝』と『曲神紀』の終了事情
- 編集部との確執や作者死亡との関係
- ライジング以降の続編とシリーズの現在
『孔雀王』の打ち切り理由を検証
最初に押さえたいのは、『孔雀王』シリーズを全部同じ打ち切り理由で説明することはできないという点です。
初代『孔雀王』は1985年から1989年にかけて連載され、全17巻、全161話というまとまった規模を持つ作品です。
一方、その後の『孔雀王 退魔聖伝』や『孔雀王 曲神紀』では、物語がまだ先へ続きそうな状態で幕を閉じたため、現在でも「打ち切りだったのでは?」という疑問が残っています。
| 作品 | 終了の印象 | 打ち切りとの関係 |
|---|---|---|
| 『孔雀王』 | 全17巻で一区切り | 初代自体を打ち切りとみなす根拠は乏しい |
| 『孔雀王 退魔聖伝』 | 本筋に未消化感あり | 作者認識では単純な強制打ち切りとは異なる |
| 『孔雀王 曲神紀』 | 全12巻で急な終了 | 編集方針との衝突が大きく関係 |
| 『孔雀王 ライジング』 | 全10巻で完結 | 作者晩年まで執筆された別系列 |
| 『孔雀王 戦国転生』 | 晩年まで連載 | 作者の逝去と切り離せない |
『孔雀王』の打ち切り理由を知る最大のコツは、初代・退魔聖伝・曲神紀を別作品として見ることです。
初代は完結
まず一番誤解してほしくないのが、1985年から始まった初代『孔雀王』そのものです。
初代は全17巻にわたって刊行され、作品として大きな一区切りを迎えています。
そのため、「孔雀王は全17巻で打ち切られた」という理解はかなり雑です。
ネット検索ではシリーズ名が全部『孔雀王』としてまとめられるため、後年の『退魔聖伝』や『曲神紀』で起きた終了事情が初代にも逆流しているんすよね。
これは映画シリーズでいうなら、3作目の制作トラブルを理由に1作目まで「未完成映画だった」と呼ぶようなものです。
作品単体を見れば、初代は孔雀という退魔師を中心に、密教・妖怪・世界各地の神話へスケールを拡大しながらひとつの到達点まで進みます。
しかも全17巻というボリュームは、短期終了作品という印象からもかなり遠いです。
僕が後追いで読んで面白かったのは、初期の一話単位に近い怪異退治から、徐々に長編バトルへカメラが引いていく構成です。
最初はテレビ局など身近な場所で発生する怪異を追っていたのに、いつの間にか宗教や世界神話までフレームに入ってくる。
映像で例えるなら、狭い室内劇として始まった映画が、終盤ではワイドレンズを使った神話大作へ変貌していく感覚で、このスケールアップ自体が『孔雀王』の中毒性なんすよ。
一方、シリーズ名を継承した作品が後から何本も登場したため、「初代で完結しているならなぜ続編があるの?」と感じる人もいるはずです。
ただ、続編が存在することと、前作が未完だったことはイコールではありません。
映画でも一度完結した物語から新章が始まることは普通にありますし、『孔雀王』も同じ感覚で見るとかなり分かりやすいです。
初代『孔雀王』までまとめて打ち切り扱いする必要はありません。
完結作品が終盤のテンポだけで打ち切りと誤解されるケースについては、『だがしかし』の打ち切り理由を検証した記事でも詳しく扱っています。
退魔聖伝
『孔雀王』の打ち切り説が急にややこしくなるのが、第2部にあたる『孔雀王 退魔聖伝』です。
こちらは初代のように「きっちり幕が降りた」という読後感ではなく、物語の大きな流れがまだ続きそうな段階で連載が終わっています。
だからリアルタイムで追っていた読者が「え、ここで終わるの?」となったのはめちゃくちゃ理解できます。
実際、ネット上の感想でも本筋が途中で止まったように感じたという反応があり、その違和感が長年にわたる打ち切り説につながっています。
ただし、ここで重要なのが、読者から打ち切りに見えることと、編集部から打ち切りを宣告されたことは別だという点です。
荻野真先生は後年、別作品のあとがきで自身にとって初めて打ち切りを経験したという趣旨のコメントを残したとされており、その言葉を基準にすると『退魔聖伝』を編集部による強制終了と断定するのは難しくなります。
つまり『退魔聖伝』は、見た目だけなら相当打ち切りっぽい。
でも制作側の認識まで踏み込むと、一般的な「人気がなくなって編集部から終了を命じられた漫画」と同じ箱には入れにくいんすよ。
僕が漫画表現として気になるのもここです。
『退魔聖伝』では、初代以上に日本神話や神々の対立へ物語の射程が伸び、画面へ入ってくる情報量も増えていきます。
映画でいうと、第1作では主人公を追う手持ちカメラだったのに、続編では国家や宗教まで俯瞰する空撮へ切り替わったようなものです。
スケールが広がったぶん、観客が「この伏線はどこへ着地するの?」と待っているポイントも増える。
そこで本編が止まるので、未完感が増幅されるわけです。
ぶっちゃけ、読者側からすれば契約事情がどうだったかより、「この続き読みたいんだけど!」という感情の方が先に来ますよね。
そのモヤモヤ自体はめちゃくちゃ正当です。
ただ、記事として打ち切り理由を追うなら、『退魔聖伝』は唐突な終了だったが、作者自身が編集部から強制的に切られた作品と認識していたとは限らないというところまで分けて考える必要があります。
曲神紀
そして『孔雀王』シリーズで「打ち切り」という言葉が最も直接的に当てはまるのが『孔雀王 曲神紀』です。
『曲神紀』は2006年に『週刊ヤングジャンプ』で連載が始まり、その後『月刊ヤングジャンプ』へ移ったものの、2010年に終了しました。
単行本は全12巻です。
ここは『退魔聖伝』と違い、単に読者が終わり方から打ち切りを推測しているだけではありません。
作者側が残した情報から、編集部との方向性の違いが終了に関わったことが読み取れます。
だから「孔雀王の打ち切り理由は?」と聞かれた場合、僕ならまず「どの孔雀王?」と確認したうえで、曲神紀なら編集方針との衝突が核心と答えます。
『曲神紀』が興味深いのは、作品が単に勢いを失って小さくなったというより、むしろ作者の興味がどんどん別方向へ膨張していった点です。
日本神話や宗教観を再解釈するだけでなく、終盤では芸能や音楽を絡めたかなり異色の展開まで踏み込みます。
ここ、読者によって評価が真っ二つに割れやすいところなんすよ。
「孔雀と怪異が真正面からぶつかる退魔バトルを見たい」という人からすれば、期待していたカメラが突然別の被写体を撮り始めたように感じます。
逆に、荻野作品の暴走寸前の発想こそ魅力だと感じる人なら、「そこまで行くのかよ笑」と面白がれる。
僕は後者の気持ちも分かるんですよね。
商業作品では読者が期待する型を守る必要がありますが、クリエイターとしては同じ画を何十年も撮り続けることほど苦しいものもないです。
Z世代の自分も仕事をしていると、「求められている自分」と「次にやりたいこと」がズレる瞬間があります。
会社なら評価されている仕事を続ける方が安全ですが、本人の好奇心はもう別方向へ行っている。
『曲神紀』の終了事情って、かなり極端な形ではあるものの、この普遍的なクリエイターと商業の摩擦なんすよ。
初代『孔雀王』=完結作、『退魔聖伝』=唐突な終了、『曲神紀』=編集方針との衝突を伴う打ち切り。
この3つを分けるだけで、検索上の情報はかなり読み解きやすくなります。
編集部との確執
『曲神紀』の打ち切り理由として避けて通れないのが、荻野真先生とヤングジャンプ編集部との作品方針の食い違いです。
作者の公式サイトでは、『曲神紀』の終了について予告のない打ち切りだったことや、編集側が当時の読者に求められる方向性を意識していたことが語られています。
ここでポイントになるのは、「編集者が作品を嫌っていたから切った」という単純な構図ではないことです。
漫画雑誌は作家の表現だけで成立しているわけではなく、読者層、掲載順、単行本販売、雑誌全体のカラーなど複数の要素を見ながら運営されています。
一方、作者は長期間同じシリーズを描くうちに、以前と同じ退魔アクションだけではなく、新しい神話解釈や別ジャンル的な表現へ踏み込みたくなる。
この両方が噛み合っている時は長期シリーズが走り続けられます。
しかし歯車がズレると、作者側では「もっと変化させたい」、編集側では「読者が見たいものへ戻してほしい」という状態になります。
映画制作でいえば、監督が実験映画を撮り始めたのに、出資側はシリーズ1作目のようなアクション映画を要求している状態です。
どちらか一方が絶対に悪いというより、もう同じ完成映像を想像できていない。
『曲神紀』は、そのズレが作品の最後まで表面化したケースとして見ると腑に落ちます。
ネットでは宗教団体や政治的な団体から抗議を受けて終了したのではないかという説も見かけます。
たしかに『孔雀王』シリーズは神道や仏教、日本神話を大胆に再解釈する作品なので、そういう噂が生まれるのは分からなくもないです。
ただ、その説を打ち切りの決定的理由として裏付ける公式な説明は確認できません。
なので、そこを事実のように断言するのは危険です。
根拠を優先するなら、外部団体からの圧力説より、作者自身が触れている編集方針との衝突を見るべきです。
ネットの噂って、理由が分からない空白にドラマチックな物語を入れたくなるんすよね。
でも現実の創作現場では、巨大な陰謀より「作者が描きたいものと媒体が欲しいものが合わなくなった」という話の方がよほど起きやすいです。
宗教団体などからの圧力が直接の打ち切り原因だったという説は、確認できる一次情報が乏しいため事実として扱わない方が安全です。
突然の最終回
『曲神紀』が現在まで打ち切り作品として記憶されている理由は、制作事情だけでなく、読者が受け取った「急に終わった」という感覚にもあります。
単行本は第12巻まで刊行され、最終話も収録されているため、形式だけ見れば最終巻の存在する作品です。
しかし「最終話がある=物語上の全要素が十分な尺で着地した」という意味ではありません。
ここが漫画の完結を考えるうえでめちゃくちゃ大事なんすよ。
映画だってエンドロールが流れれば上映は終わりますが、観客が「いや、さっきの話どうなった?」と感じる作品はあります。
『曲神紀』もそれに近く、広げてきた世界観に対して残された尺が足りず、終盤の編集テンポが一気に上がったように感じやすいです。
漫画表現で見ると、長期連載では通常、重要人物の決断、対立、余韻を別々の場面へ割り振ります。
ところが終了時期が先に決まると、本来なら数話かけて撮るはずだったシーンを短いモンタージュへ圧縮するような現象が起きます。
読者は制作事情を知らなくても、そのカットの短さを肌で感じます。
これが「突然終わった」「まだ続くと思っていた」という感想になるわけです。
ネット上でも『曲神紀』の終わり方に戸惑ったという声があり、同時に亡くなる直前までシリーズを描き続けた荻野先生への思いを語るファンもいます。
つまり評価としては、最終回だけを切り取って「雑だった」で終わらせるのも違います。
僕はむしろ、長寿シリーズが商業媒体の都合と作者の作家性の間でどのように着地できなくなるのか、その痕跡まで作品内に残った珍しいケースだと見ています。
あえて苦言を呈するなら、読者がお金と時間を積み重ねてきた以上、もう少し長い滑走路で着地してほしかったっすね。
作品を追う側は伏線そのものだけではなく、「この人物たちを最後まで見届けられる」という信頼にも投資しています。
だから突然の幕引きは、単なる1話の出来以上に記憶へ残るんです。
『孔雀王』の打ち切り理由とその後
ここからは打ち切り後のシリーズと作者・荻野真先生について見ていきます。
『孔雀王』の話では作者の逝去まで打ち切り理由として混同されることがありますが、『曲神紀』が終了した時期と作者が亡くなった時期には大きな隔たりがあります。
さらに後年には『孔雀王 ライジング』や『孔雀王 戦国転生』が始まっているため、「曲神紀が終わった=孔雀王シリーズそのものが消滅した」わけでもありません。
作者の荻野真
『孔雀王』を語る時、終了事情だけではなく作者・荻野真先生の作家性まで見ると、なぜシリーズがあれほど独特な方向へ進んだのかが分かります。
荻野先生は密教、仏教、日本神話、世界各地の伝承を漫画的エンタメへ変換した作家です。
ただ資料を引用するのではなく、宗教モチーフを必殺技、怪異、キャラクター造形へ落とし込む。
現代の漫画では神話由来の能力バトルは珍しくありませんが、1980年代の青年誌でここまで宗教的な図像を前景化した作品はかなり異質だったはずです。
僕が映像オタク目線で刺さるのは、宗教画のような正面性とホラー映画的な異形表現が同じページに存在するところです。
人物を真正面から立たせる荘厳な構図の次に、怪異を画面いっぱいへ侵入させる。
静と動というより、聖なるイコンとスプラッターホラーを高速で切り返している感じなんすよ。
当時のリアルな読者からも、設定に多少の齟齬がありながら勢いがあり、初代はきちんと完結していて面白かったという声があります。
また、宗教バトル漫画の先駆けとしてリアルタイムで愛読していたというファンも残っています。
この「細部より熱量」という評価は『孔雀王』をかなり的確に表していると思っています。
世界各地の宗教モチーフを学術書のように厳密に並べる作品ではなく、漫画というカメラを通して全部を巨大な伝奇ショーへ変換する。
だから設定を一個ずつ検証すればツッコミどころも出ます。
でもページをめくらせる推進力がそれを上回る瞬間がある。
映像作品でも、物理的にはおかしいけど編集と音響と芝居で押し切られて鳥肌が立つシーンってあるじゃないですか。
『孔雀王』はまさに漫画版のそれです。
その一方で、長期シリーズになるほど神話体系が巨大化し、作者自身の興味も変化していったため、商業誌が期待する「いつもの孔雀王」と距離ができた。
打ち切り事情まで含めると、作家性と商業性のせめぎ合いがそのままシリーズ史になっています。
作者の死亡
検索では「孔雀王 作者 死亡」という言葉も出てくるため、打ち切り理由と混ざりやすいポイントです。
荻野真先生は2019年に59歳で亡くなっています。
ただし、『曲神紀』の終了は2010年です。
つまり、『曲神紀』が作者の死亡によって途中終了したわけではありません。
ここは年代を見るだけでもはっきり切り分けられます。
むしろ注目したいのは、『曲神紀』終了後も荻野先生が『孔雀王』という作品世界から離れなかったことです。
その後、『孔雀王 ライジング』と『孔雀王 戦国転生』という別角度のシリーズを描いています。
これ、かなり重要なんですよ。
もし『曲神紀』の終了が「もう孔雀王なんて描きたくない」という完全な決別だったなら、後年に再び違う時間軸や設定で孔雀を描き続ける理由は薄いです。
実際には、掲載媒体や切り口を変えながらシリーズへ戻っています。
だから『曲神紀』で問題になったのは、『孔雀王』そのものへの創作意欲が完全に消えたというより、あの時点の掲載媒体と作品方針の組み合わせだったと見る方が自然です。
仕事でも「この仕事自体が嫌い」なのと、「今の会社、この進め方では続けられない」は全然違うじゃないですか。
僕らZ世代は転職や副業が以前より身近なので、この差は感覚的に分かりやすい気がします。
場所を変えたら、同じ技能やテーマをもう一度好きになれることがある。
荻野先生が後年も孔雀を描いた流れを見ると、作品との関係もそんなふうに見えるんすよね。
作者の逝去は『ライジング』など晩年作品と関係しますが、2010年に終了した『曲神紀』の打ち切り理由として扱うのは時系列上誤りです。
ライジング
『孔雀王 ライジング』は2012年から描かれたシリーズで、従来作より若い時代の孔雀へ焦点を当てています。
つまり『曲神紀』の続きをそのまま再開した作品ではなく、主人公の原点へカメラを向け直した作品です。
この判断が個人的にめちゃくちゃ面白い。
長期シリーズの再始動って、普通は前作より敵を巨大化させる方向へ行きがちです。
前回は世界を救ったから、今度は宇宙を救う、みたいなインフレですね。
しかし『孔雀王』は初代からすでに宗教と神話のスケールがかなり広がっています。
そこでさらに上へ積み増すのではなく、若き日の孔雀へ時間軸を戻す。
映画でいえば続編ではなくプリクエルへ切り替え、観客が知っている人物の「まだ完成していなかった頃」を撮る方式です。
これはキャラクターものとしてかなり理にかなっています。
完成された退魔師は戦闘では格好いいものの、人物ドラマでは成長余地を作るのが難しくなります。
若い孔雀なら、技術だけでなく価値観や他者との距離まで変化させられる。
初代を知っている読者は「この少年があの孔雀になるのか」という未来を重ねながら読めます。
新規読者は過去シリーズの巨大な設定を全部覚えていなくても入りやすい。
シリーズ再生の方法として、かなり映画的なんすよ。
そして『ライジング』は全10巻で完結作品として刊行されています。
作者の晩年と重なる作品ではありますが、単に「作者が亡くなったので途中で消えた漫画」と見るのは適切ではありません。
荻野先生は闘病中も執筆を続け、最終回まで作品を届ける準備を進めていました。
だからここも『曲神紀』と同じ打ち切り理由でまとめない方がいいです。
戦国転生
もうひとつの晩年シリーズが『孔雀王 戦国転生』です。
タイトル通り、従来の現代伝奇から舞台を大きく変え、戦国時代と孔雀を接続した作品になっています。
これもシリーズの作り方としてかなり攻めてますよね。
普通なら長寿IPは設定を固定し、「ファンが知っている世界」を守る方向へ進みます。
でも荻野先生は、孔雀というキャラクターを別の時代へ放り込むことで、世界そのものを組み替えている。
映像作品でいうと、同じ主人公を使った歴史改変スピンオフに近いです。
僕はこの発想を見ると、『曲神紀』で編集部との方向性が噛み合わなくなった理由も少し見える気がします。
荻野先生って、完成したフォーマットを永久に反復するタイプではなかったんですよ。
密教バトルが当たったから同じ密教バトルを量産するのではなく、神話、SF、歴史へフレームをずらしたくなる。
作品をブランドとして管理したい立場からすると扱いにくい部分だったかもしれませんが、作家として見るとそこが魅力でもあります。
『戦国転生』も荻野先生が亡くなる直前まで描き続けた作品です。
そのため晩年シリーズの終了と作者の逝去には関係がありますが、これも「人気が落ちて編集部から即座に切られた」というタイプの打ち切りとは意味が違います。
ここをごちゃ混ぜにすると、『曲神紀』の編集方針問題と晩年作品の終了が全部同じ理由だったように見えてしまいます。
シリーズ史を追う時は、作品名と年代をセットで見るのが一番です。
続編の有無
では、『孔雀王』に今後さらに続編が作られる可能性はあるのでしょうか。
原作者である荻野真先生が亡くなっている以上、本人による完全な新作続編を期待することはできません。
そして『曲神紀』で残った要素を、荻野先生自身がそのまま連載再開して回収する可能性もありません。
ここはファンにとって一番寂しいところっすね。
ネット上の感想を見ても、『退魔聖伝』から『曲神紀』へ長い時間を経て物語が再びつながった経験があるため、「いつかまた続くのでは」と期待した読者がいたことが伝わってきます。
一度十年以上空いてから戻ってきたシリーズなら、また復活するかもしれないと考えてしまうのも当然です。
ただ、作者本人の死によって、その期待は以前とはまったく違うものになりました。
もちろんエンタメ業界では、原作者の死後に遺族や権利者の監修で作品が展開される例もあります。
アニメ化、復刻、再編集、映像化、別作家による企画など、IPとしての展開方法自体はいくつもあります。
しかし、現時点で正式発表されていない新作を「続編が作られる」と断言することはできません。
最新の出版・販売・映像化情報については、集英社、小学館、リイド社など権利元や出版社の公式情報を確認してください。
個人的には、『孔雀王』って現代アニメとの相性がかなり面白い作品だと思っています。
密教法具や巨大な宗教的イメージは、現在の撮影処理や3DCG、パーティクル表現と組み合わせれば、1980年代には不可能だった画面を作れる。
ただし綺麗なCGでピカピカにするだけだと『孔雀王』じゃないんですよ。
必要なのは、セル画時代のOVAが持っていた異様な陰影、肉感、煙、血、暗部の湿度みたいなものです。
もし映像として再構築するなら、現代技術を使いながら画面を少し汚す勇気が必要だと僕は思っています。
完璧に清潔なデジタル画面より、何か触ったら呪われそうな画面の方が絶対に似合う笑。
そういう意味では、物語の直接的な続編だけでなく、初代を現代映像技術で再解釈する企画にも可能性を感じます。
孔雀王打ち切り理由
最後に、『孔雀王』の打ち切り理由をもう一度まとめます。
まず、1985年から1989年まで連載された初代『孔雀王』は全17巻で一区切りを迎えており、作品自体を典型的な打ち切り漫画とみなす必要はありません。
打ち切り説が濃くなるのは、その後のシリーズです。
『孔雀王 退魔聖伝』は本筋が続きそうな状態で終了したため、読者側から見るとかなり唐突です。
ただ、作者の後年の発言まで踏まえると、編集部から一方的に終了を命じられた作品だったと断定するのは難しいです。
一方、『孔雀王 曲神紀』については事情が違います。
作者側の記録から、ヤングジャンプ編集部との作品方針の食い違いがあり、予告なしの打ち切りへ至ったことが読み取れます。
つまり検索キーワードとしての「孔雀王 打ち切り理由」に最も直接答えるなら、曲神紀では作者が描きたい方向と編集部が読者へ届けたい方向が噛み合わなくなったことが大きな要因です。
宗教団体などから圧力を受けたという噂もありますが、それを決定的理由として扱える一次情報は乏しく、事実のように語るべきではありません。
また、荻野真先生が2019年に亡くなったことは『曲神紀』の終了理由ではありません。
曲神紀終了後も『孔雀王 ライジング』や『孔雀王 戦国転生』を描いているため、シリーズそのものへの創作意欲が曲神紀の時点で消えたと見るのも違います。
- 初代『孔雀王』は全17巻で一区切り
- 『退魔聖伝』は唐突な終了だが単純な強制打ち切りとは断定しにくい
- 『曲神紀』は編集部との作品方針の食い違いが打ち切りに直結
- 作者の死亡は2010年終了の曲神紀とは時系列が異なる
- 『ライジング』『戦国転生』は曲神紀終了後に描かれた別系列
僕がこのシリーズ史を追っていて一番感じるのは、「打ち切り」という二文字だけではクリエイターと作品の関係までは説明できないということです。
売れた作品ほど「同じものをもう一度」という期待が大きくなる一方、作家本人は昨日と同じカットを撮り続けたくない。
そのズレが幸福な進化になることもあれば、『曲神紀』のように掲載媒体との衝突になることもあります。
ぶっちゃけ、読者としてはちゃんと最後まで読みたかった。
でも、思い通りに終われなかった痕跡まで含めて『孔雀王』という長いシリーズの歴史なんすよね。
初代の勢い、退魔聖伝の巨大化した神話世界、曲神紀の異様な方向転換、そして晩年まで孔雀を描き続けた作者の執念。
打ち切りという言葉だけを入口にしても、その奥には一人の漫画家が何十年も同じキャラクターと向き合い続けた、めちゃくちゃ濃い創作史が残っています。
アニメ・映画が大好きで毎日色んな作品を見ています。その中で自分が良い!と思った作品を多くの人に見てもらいたいです。そのために、その作品のどこが面白いのか、レビューや考察などの記事を書いています。
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