PR

『チェンソーマン』最終回はひどい?賛否の理由を考察

アニメ・漫画

皆さんは『チェンソーマン』という作品を知っていますか?

藤本タツキ先生による『チェンソーマン』は、ぶっ飛んだバトル漫画に見えながら、人間の欲望や孤独、幸せとは何なのかまで突っ込んでくる作品です。

そんな『チェンソーマン』が第232話で最終回を迎えたことで、ネットでは最終回がひどい、夢落ちなのでは、伏線未回収ではないか、唐突な結末だったといった声が一気に増えました。

さらに、第2部の評価や打ち切り説、第3部はあるのか、パワー復活の意味、アサの結末、最終巻の内容まで気になっている人も多いはずです。

僕も読み終えた直後は、いや待って、ここで終わるんすか?という感覚がかなりありました。

ただ、時間を置いて第1部から続いてきた構造を振り返ると、単純に投げ出した最終回とも言い切れないんですよね。

この記事では重要場面を細かく再現するようなネタバレは避けつつ、なぜこのラストがここまで賛否を生んだのかを、漫画のコマ割りや映画的な演出、キャラクターの扱いから考えていきます。

  • 最終回がひどいと言われる理由
  • 夢落ち説や打ち切り説の見方
  • パワーやアサに残された意味
  • 第3部や作品完結をどう考えるか

『チェンソーマン』最終回がひどい理由

『チェンソーマン』最終回への不満を見ていると、単にハッピーエンドではなかったから荒れているわけではありません。

むしろ問題になっているのは、読者が何年も追いかけてきた情報量と、ラストで提示された答えの量が釣り合っていないように感じられる点です。

ここからは夢落ち説、伏線、物語の終わらせ方、第232話そのもの、第2部全体という順番で見ていきます。

夢落ち説

最終回を読んだ人の間で真っ先に飛び出したのが、これって夢落ちなの?という反応です。

ただ、僕は典型的な夢落ちとは少し違う読み方をしています。

普通の夢落ちは、それまで起きていた出来事を夢だったことにして現実へ戻す手法ですよね。

『チェンソーマン』のラストが厄介なのは、過去の出来事を単純に無効化するというより、それまでの物語を経験したからこそ到達できる別の状態として描かれている点なんです。

ここがめちゃくちゃ藤本タツキ作品っぽい。

映画で例えるなら、物語の最後に最初と似た構図をもう一度映しながら、登場人物や配置だけを少し変える演出に近いです。

同じ画角なのに意味だけ変わっている。

映画好きとしては、この手法自体はかなり好きなんすよ。

第1話付近を覚えているほど、似ている部分と違っている部分を探したくなる作りになっています。

ただし、ここで問題も発生します。

世界や人間関係が大きく変化したように見えるため、読者によっては、今まで積み上げてきた話は何だったんだよ、と感じてしまうんです。

夢落ちっぽく感じる最大の理由は、物語の原点を思わせる構図へ急激に戻ることです。

一方で、単純に全部が夢だったと片付けるより、積み重ねの果てに別の可能性が提示されたと見るほうが作品の作りには合っています。

Z世代って、人生リセットしたいみたいな言葉をネットで軽く使いますよね。

僕も就活中に全部初期化して別ルート行きてえな、と思ったことがあります笑。

でも、本当に記憶も関係も消えたら、それは救いなのか。

このラストが妙に引っかかるのは、そんな怖さまで含んでいるからだと思っています。

伏線未回収

ひどいという評価につながりやすいのが、伏線未回収に見える部分です。

第2部では悪魔の正体、キャラクター同士の思惑、社会がチェンソーマンへ向ける視線など、とにかく後で何かありそうな要素が大量に配置されていました。

だから読者としては、当然それぞれに明確な回答が来ると思うじゃないですか。

ところが実際のラストは、設定資料集みたいに答え合わせをしてくれる終わり方ではありません。

ここはぶっちゃけ、不満が出るのも分かります。

ミステリー作品で重要人物を何人も登場させておいて、犯人だけ明かして終わったようなモヤモヤに近いものがあります。

特に週刊・隔週でリアルタイムに追っていた人ほど、細かな描写を何か月も考察しているので、そのぶん答えを欲しくなるんですよね。

ただ、伏線には回収されなければ成立しないものと、世界の奥行きを出すために残されるものがあります。

『チェンソーマン』は後者をかなり使う漫画です。

第1部でも、悪魔について百科事典みたいな説明を全部やる作品ではありませんでした。

読者が知りたい情報と、デンジが生きるうえで必要な情報が一致していない。

ここがポイントなんすよ。

デンジ本人は世界設定の謎を解きたいわけではありません。

飯を食いたい、人から好かれたい、普通に暮らしたい。

その目線を優先すると、世界の秘密が説明されないまま終わること自体は作品の思想から外れていません。

ただし、読者が長期間追ってきた要素への回答が少ないと感じるのも当然です。

余白と説明不足は紙一重なので、ここを芸術的だから全部OKと片付けるのも違うと思っています。

唐突な結末

最終回がひどい派の意見で、僕が一番納得できるのは唐突さです。

ラストそのものより、最終地点へ入っていく速度に驚かされます。

映像で考えると分かりやすいです。

普通なら終盤は、クライマックス、余韻、エピローグという具合に少しずつカメラを引いていきます。

『チェンソーマン』の場合、アクセルを踏んだまま走っていた映像が、急に暗転してエンドロールへ入ったような感覚があります。

このため、頭では意味を追えても感情が追いつきにくい。

特に第2部はアサをはじめ複数の人物へ視点が広がっていました。

そのぶん、読者側もそれぞれの人生に決着がつくまで数ページずつ余韻が欲しくなります。

僕なら映画版の編集を想像したとき、終盤にあと数分ほしいなと思います。

台詞を増やすという意味ではありません。

無音のロングショットや、街の日常を映すカットだけでもいい。

観客が出来事を飲み込む時間があるだけで印象はかなり変わります。

ただ、藤本タツキ作品って、あえて観客の呼吸に合わせてくれないところがあるんですよね。

『ファイアパンチ』でもそうでしたが、こっちが感情移入している最中でも物語は容赦なく次へ行きます。

読者に気持ちよく納得させることより、読み終えた後に異物を残す。

その作家性を好きか嫌いかで、今回の評価はかなり変わります。

僕はその不親切さも面白いと思いつつ、今回はさすがにもう少し余韻をくれよ、とも感じました。

好きな作品だからこそ出る苦言っすね。

第232話

『チェンソーマン』は第232話で完結しました。

少年ジャンプ+では2026年3月25日公開の第232話が最終回として掲載され、作品ページにも完結済みと記載されています。

(出典:少年ジャンプ+『チェンソーマン』第232話)

項目内容
作者藤本タツキ
最終話第232話
公開日2026年3月25日
コミックス全24巻
掲載少年ジャンプ+

内容そのものについては、ここでは重要場面を順番通りに説明することは避けます。

ただ、演出として注目したいのは、第232話が派手な最終決戦の延長ではなく、これまでの物語そのものを別角度から見直させるエピローグになっていることです。

漫画のページを映画のカットとして見ると、過去を思わせる構図が再び配置されます。

これが単なるファンサービスではなく、同じように見える人生でも、誰と出会うかによって意味が変わるという演出に見えるんですよね。

僕が好きなのはここです。

デンジって世界を救う英雄として見ると、かなり変な主人公じゃないですか。

でも、一人の若者として見るとめちゃくちゃ切実です。

普通に飯を食う。

誰かと生活する。

愛されたい。

そんな低いようで実はめちゃくちゃ難しいハードルをずっと追いかけています。

第232話は、そのスタート地点をもう一度こちらへ見せることで、チェンソーマンとして成功したかではなく、デンジという人間は幸せになれたのかを問い直しているように感じます。

だから僕は、最終話単体のアイデアはかなり好きです。

でも、そのアイデアへ着地するまでの尺にはまだ引っかかっています。

この二つは普通に両立する感想だと思います。

第2部の評価

最終回を語るなら、第2部全体への評価も避けられません。

第1部はデンジを中心に猛烈な速度で事件が連鎖していきます。

対して第2部では、アサという別の主人公格が置かれ、学校生活やSNS的な承認、他者との距離感へかなり時間を割いています。

この変化が面白かった人もいれば、テンポが落ちたと感じた人もいます。

ネット上でも、第1部ほど話が前へ進んでいる感じがしない、キャラクターの掘り下げが足りないという不満は以前から見られました。

僕は第2部を、バトル漫画の続編というより有名になってしまった存在と、その名前に振り回される人間を描く話として読んでいました。

これ、めちゃくちゃ現代っぽいんですよ。

本人の実像より先に名前や評判が歩いていく。

SNSでも同じですよね。

バズった人が翌日から、そのイメージを維持するために生き始める。

デンジも似た状態に入っていきます。

チェンソーマンになれば注目される。

でも、注目された自分と本当の自分は同じなのか。

ここにアサという、他人との距離感がめちゃくちゃ不器用な人物をぶつけたのが第2部の面白さでした。

一方で、物語の駆動力だけを見れば第1部のほうが分かりやすいです。

敵が来る、戦う、状況が変わるという流れが猛烈だったので、第2部の寄り道の多さに戸惑うのは当然なんすよ。

第2部への評価が割れたのは、作品の質だけではなく、読者が第1部と同じスピード感を期待していたことも大きいと僕は見ています。

映画でいえば、アクション映画の続編を観に行ったら青春群像劇になっていたようなもの。

そりゃ好き嫌いは割れます笑。

『チェンソーマン』最終回ひどい説を考察

ここからは、最終回公開後に目立った疑問をもう少し踏み込んで見ていきます。

特に打ち切り説や第3部については、読者の希望と公式に確認できる情報を混ぜないことが大切です。

そしてパワーやアサについても、場面を細かく再現するのではなく、物語上どんな役割を担ったのかという方向から考えていきます。

打ち切り説

最終回のスピード感から、打ち切りだったのでは?と感じた読者もいます。

気持ちは分かります。

少年漫画をたくさん読んでいる人ほど、終盤で一気に話が進むと打ち切り漫画の記憶がよみがえるんですよね。

ラスボス級の問題が急速に片付き、少ないページで未来が提示される。

確かに見た目だけなら似ています。

しかし、唐突に感じたことと、実際に編集部判断で打ち切られたことは別問題です。

少年ジャンプ+の公式ページでは作品が完結済みとして扱われ、第232話も最終回として公開されています。

少なくとも、読者が感じたテンポだけを根拠に打ち切りだったと断定することはできません。

僕はむしろ、藤本タツキ先生がラストへ向かうとき特有の速度が、今回は極端に出た可能性を考えています。

映画でも監督によってエンディングの癖があります。

全部説明して観客を送り出す監督もいれば、主人公の表情だけ映して終わる監督もいる。

藤本作品は明らかに後者寄りです。

問題は、連載漫画だと映画より読者が作品と過ごす期間が長いこと。

何年間も追った物語を数話で畳まれると、観客側の体感では急停止になります。

だから打ち切りっぽく見えてしまう。

でもそれは、制作事情についての証拠とは別です。

打ち切り説は公式発表が確認できない限り事実として扱わないほうが安全です。

作者や編集部の意図を外部から断定するのは避けたいところです。

第3部はある?

最終回を読んだ人なら、次に気になるのが第3部です。

終わり方に余白があるので、これ絶対続けられるやろ、と思った人も多いはずです。

僕もそう感じました。

ただ、2026年8月時点で少年ジャンプ+では『チェンソーマン』は完結済みとして案内されています。

そのため、現段階で第3部が確定していると考える材料はありません。

ここで面白いのが、続編を作れる終わり方と、続編を作る予定がある終わり方は全然違うことです。

『チェンソーマン』の場合は前者に見えます。

世界そのものに悪魔という仕組みが存在する以上、新しい事件はいくらでも作れます。

デンジを再び物語へ巻き込むこともできる。

別人物を主人公にすることだってできます。

しかし、物語として見ると今回の終着点は、チェンソーマンになることから始まったデンジの人生へ一度ピリオドを打つ形にもなっています。

なので僕は、第3部を前提に最終回を評価するのは避けています。

続きがあれば神になる、続きがなければ伏線放置、みたいな判定をすると、今ある作品そのものを見失うんすよ。

漫画や映画って、続編の予告編として存在しているわけではありませんからね。

アニメ展開について詳しく追いたい場合は、『チェンソーマン』アニメ第2期の最新状況も参考にしてください。

原作が完結しても映像作品としての展開は別に進むため、漫画の完結とアニメシリーズの終了を混同しないことが大切です。

パワー復活

パワーについては、最終回で特に反応が大きかったポイントです。

ここでは具体的な登場の仕方や場面の流れまでは書きませんが、パワーを連想させる要素がラストの印象を大きく変えています。

第1部を読んできた人にとって、パワーは単なる人気キャラではありません。

デンジにとって家族という概念を身体で覚えさせた人物なんですよ。

恋愛でもない。

師弟でもない。

最初は最悪に相性が悪いのに、気づけば生活の一部になっている。

この距離感がめちゃくちゃリアルでした。

人間関係って、運命的な出会いより、一緒に飯を食った回数で変わることがありますからね。

僕も仕事仲間と最初は全然話が合わなかったのに、何回も修羅場を共有したら急に仲良くなった経験があります。

第1部のデンジ、アキ、パワーもそれに近い。

だから最終回でパワーを思わせる存在が関わってくることは、人気キャラ復活サービス以上の意味を持ちます。

デンジが失った家族という可能性を、別の形でもう一度置き直しているように見えるんです。

ただし、以前のパワーがそのまま何もかも元通りになった、と単純に受け取るのは違います。

『チェンソーマン』では悪魔の存在と人格、記憶、関係性が同じものとして扱われているわけではありません。

だからこそ、復活した、良かったで終わらず、同じ存在と再び関係を作ることは同じ人生なのかという問いが残ります。

ここ、めちゃくちゃ残酷で好きなんすよ。

アサの結末

第2部を語るうえで、三鷹アサを外すことはできません。

むしろ第2部前半だけを見れば、デンジよりアサのほうが主人公っぽい時間さえあります。

アサはコミュニケーションが上手いキャラクターではありません。

考えすぎる。

自意識も大きい。

人からどう見られているのか気にするのに、うまく振る舞えない。

いや、Z世代に刺さりすぎやろって人物です。

SNSでは人の人生が全部うまくいっているように見えるのに、自分だけイベントが起きない。

そんな感覚をアサはずっと抱えています。

だから彼女とデンジの関係も、王道ラブコメのようには進みません。

好意が生まれそうになると別の事情が割り込み、誤解して、距離ができる。

恋愛映画ならカメラが二人を同じフレームへ収めたいところで、『チェンソーマン』は何度もフレームを分断してくる感じです。

このすれ違いが第2部の個性でした。

そのため、アサの結末にもっと長い答えを求めた人がいるのも分かります。

僕も、あと一段階アサ自身の言葉を聞きたかったです。

ただ、アサというキャラクターを、誰かと結ばれたから完成、戦争の悪魔との問題が片付いたから完成、と判定するのも違う気がします。

彼女が普通の世界で生きられる可能性そのものが、ある意味では最大級の回答だからです。

第2部はずっと、普通でいたい人間が普通ではいられない物語でした。

そう考えると、派手なご褒美より日常へ接続するほうがアサらしい。

ただ、その意図が伝わる前に最終回が終わってしまう速度については、やっぱり惜しいです。

最終巻の内容

コミックスは全24巻で完結しています。

最終巻では連載終盤から第232話までが収録されるため、作品をまとめて読む人はリアルタイム読者とはかなり違う印象を受ける可能性があります。

これ、連載漫画では結構あります。

隔週で読むと半年近くかかった展開でも、単行本なら30分程度で読める。

すると、連載中には遅く感じた部分がむしろ普通に見えたり、逆に終盤の速度がさらに目立ったりします。

僕は作品評価でここをかなり気にします。

アニメでも毎週1話ずつ見るのと、一気見では全然違いますよね。

毎週なら引きの演出が重要になりますが、一気見だと全体のリズムが見えます。

『チェンソーマン』第2部も同じです。

ネットで毎話の感想を読みながら追うと、謎が提示されるたびに伏線として記憶されます。

でも単行本で読むと、意外と雰囲気作りのワンシーンとして通過する部分もあります。

その意味では、最終回だけ読んで作品全体をひどいと判断するより、第2部をまとめて読み直したほうがフェアです。

連載時の評価と完結後の評価は変わることがあります。

特に第2部は長期間にわたって読んだときと、単行本で続けて読んだときでテンポの体感差が出やすい作品です。

なお、巻数、販売状況、電子版の価格などは時期によって案内が変わる場合があります。

正確な情報は公式サイトをご確認ください。

購入費用などについて重要な判断が必要な場合は各販売サービスの条件を確認し、必要に応じて最終的な判断は専門家にご相談ください。

『チェンソーマン』最終回はひどい?

ここまで見てきましたが、僕は『チェンソーマン』の最終回を単純にひどいとは評価していません。

ただし、完璧な最終回だったとも言いません。

ぶっちゃけ、もっと読みたかったです。

アサの感情も見たい。

世界の変化も見たい。

残された疑問への答えもほしい。

それなのに終わる。

だからモヤモヤします。

でも、このモヤモヤを全部欠点として処理してしまうと、『チェンソーマン』という作品の変な魅力まで消えてしまいます。

この漫画は最初から、読者が欲しい答えを素直に出してくれる作品ではありませんでした。

デンジが夢を叶えたと思ったら、その夢自体が思っていたものと違う。

大切な人ができたと思ったら、人間関係は簡単に壊れる。

自由になったと思ったら、今度は自由であることに困る。

ずっとこの繰り返しです。

だからラストでも、完全無欠の幸福を用意しなかったのは筋が通っています。

一方で、第2部で広げた要素に対してページ数が足りないように見えること、終盤の速度がかなり速いこと、キャラクターによってはもう少し心情を見たかったこと。

ここは普通に苦言を呈したいです。

何でも作家性で説明すればいいわけじゃないですからね。

僕が特に面白いと思ったのは、最終回が第1話を知っている読者ほど変に感じる構造です。

同じ場所へ戻ったように見える。

でも、同じではない。

映画でいうと冒頭とラストを同じ画角にして、人物の立ち位置だけ変える演出です。

観客は差分を見ることで、その間に起きた物語を思い出します。

つまり最終回そのものに全部を書かず、読者の記憶を使って完成させるラストなんです。

これはかなり攻めています。

だからハマる人には美しいし、答えを求めていた人には投げっぱなしに見える。

賛否が割れるのはむしろ自然です。

現実の人生もそうですよね。

就職したら人生の問題が全部解決するわけではない。

恋人ができてもエンドロールは流れない。

目標を達成した翌日にも普通に朝は来ます。

『チェンソーマン』が最後まで描いていたのは、巨大な悪魔との戦い以上に、夢を叶えた後も人生が続いてしまう面倒くささだったんじゃないかと思っています。

なので僕の結論は、最終回がひどいという感想も理解できるけれど、単なる失敗作として切り捨てるには構造が面白すぎるです。

スッキリした最終回を求めていた人には刺さらない。

一方で、読み終わった後も何日か考えてしまう作品が好きな人には、めちゃくちゃ藤本タツキらしい終わり方だったはずです。

僕自身、読了直後より数日後のほうが評価が上がりました。

腹落ちしたというより、まだ頭の中に残っているんですよ。

その時点で作品側の勝ちなのかもしれません。

気持ちよくチェンソーで全部切って終わるのではなく、最後に切られたのは読者が想像していた最終回だった。

いや、最後までめんどくさい漫画っすね。

でも僕は、そこも含めて『チェンソーマン』だったと思っています。

コメント

タイトルとURLをコピーしました