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『ベルセルク』再開はひどい?作画と作者交代後の違和感を検証

アニメ・漫画

皆さんは『ベルセルク』という作品を知っていますか?

三浦建太郎先生が1989年から描き続けてきた、日本を代表するダークファンタジー漫画です。

ところが三浦先生の死去後に連載が再開されてから、検索すると『ベルセルク』の再開はひどい、作画に違和感がある、絵が変わったといったかなり厳しい言葉が並びます。

昔から追い続けている人ほど、「これは本当に『ベルセルク』なのか」「作者が変わってまで続きを描く必要があったのか」と複雑な気持ちになるのも分かります。

僕も漫画やアニメを見る時は、物語だけでなく構図、視線誘導、画面の密度、ページをめくった瞬間のインパクトまで気になってしまうタイプです。

その視点で再開後を追うと、確かに三浦先生の時代とまったく同じではありません。

ただ、それをそのまま完成度が低いという一言で片付けてしまうのも、ちょっと違うんすよ。

この記事では、作画やガッツの描写、森恒二先生とスタジオ我画による制作体制、更新ペースまで見ながら、なぜ再開後の『ベルセルク』が賛否を呼んでいるのか掘り下げていきます。

  • 再開後の作画に違和感が出る理由
  • 三浦建太郎先生の時代との違い
  • 森恒二先生とスタジオ我画の役割
  • 現在の連載状況と完結の見通し

『ベルセルク』再開がひどいと言われる理由

『ベルセルク』再開後への不満は、単純に「絵が下手になった」という話ではありません。

むしろ問題の中心にあるのは、三浦建太郎先生が何十年もかけて作り上げた漫画表現が、あまりにも固有だったことです。

線、黒の面積、コマの間、表情、ページ構成。

その全部が作者の感覚と直結していたからこそ、別の制作体制になった瞬間、わずかな差まで読者に見えてしまいます。

ここでは、特に声が上がりやすいポイントを見ていきます。

作画の違和感

再開後にまず話題になったのが、やはり作画です。

ネット上でも「以前と比べると違和感がある」「人物の顔つきが違って見える」といった反応は珍しくありません。

ただ、僕が一番気になるのは単純な線の上手さではなく、一枚の絵に情報をどれだけ詰め込むかという設計の違いです。

三浦先生の『ベルセルク』って、背景が単なる舞台装置じゃないんですよ。

城壁、瓦礫、甲冑、群衆、異形の存在まで、画面の端にあるものさえ世界観を語っています。

映画で例えるなら、美術セットと照明とカメラが全部ストーリーを語っている状態。

だからセリフを読まずにページを眺めるだけでも、その場所の温度や匂いまで想像できる。

再開後も描き込み自体はかなり膨大です。

それでも時々感じるのは、画面に存在する情報量は近くても、その情報へ視線を誘導するリズムが少し違うこと。

三浦先生の場合、大ゴマへ視線を爆発させるために、その直前の小さなコマが絶妙に機能していました。

いわば漫画版の編集。

映像でいうロングショットからクローズアップへ切り替えるような呼吸です。

再開後は、その呼吸がやや直接的に感じる瞬間があります。

決定的な画をちゃんと見せてくれる一方、その画へ到達するまでの溜めが以前より短く感じることがあるんすよ。

違和感の正体は画力だけではありません。

コマとコマの距離、視線誘導、黒ベタの置き方など、三浦先生固有の漫画演出との差も大きいです。

だから「似ているのに違う」という不思議な感覚が生まれます。

むしろ絵柄をかなり近づけているからこそ、数%の差が逆に目立つ。

これは名画を完全再現しようとすればするほど、筆致の違いが目につくのと似ています。

ぶっちゃけ僕も、最初から何の違和感もなく読めたかと言われれば無理でした。

ただし「似せられていない」のではなく、「これだけ似せても作者本人の感覚までは複製できない」という話だと考えています。

絵が変わった

『ベルセルク』の絵が変わったと感じる人がいるのも当然です。

そもそも三浦先生自身の絵でさえ、連載初期から晩年までずっと同じではありません。

初期には荒々しい劇画的な勢いがあり、連載が進むにつれて線は精密になり、巨大建築や群衆を俯瞰する画面も増えていきました。

つまり『ベルセルク』には元々、絵柄の変化があります。

それでも再開後の変化が特別に気になるのは、変化の理由が「作者自身の成長」ではなく「制作主体の変更」だからです。

僕はここがかなり重要だと思っています。

同じキャラクターでも、目と眉の距離がほんの少し変わるだけで感情の伝わり方は変わります。

映画なら同じ俳優を撮っていても、35mmレンズと85mmレンズでは顔の印象が変わるようなものです。

特に『ベルセルク』の場合、登場人物の感情を大げさなセリフではなく、目元や口のわずかな形で読ませる場面が多い。

このため輪郭や表情の微差が、そのままキャラクターの性格が変わったように見えてしまいます。

ネットの感想を見ていても、「下手」というより「何か違う」という表現が出てくることがあります。

僕はこっちの感覚のほうが実態に近い気がします。

再開後の作画を担当しているのは、三浦先生の制作現場を長年支えてきたスタジオ我画です。

まったく無関係な作家へ突然バトンタッチされたわけではありません。

そしてここは、以前このサイトで触れたアニメ『ベルセルク』がひどいと言われる理由とも少し似ています。

『ベルセルク』は原作の漫画表現自体の完成度があまりにも高いため、別の人間や別の媒体が再現しようとした瞬間に比較対象が三浦先生になります。

これ、めちゃくちゃハードルが高いんすよ。

ストーリーの変化

作画以上に議論が難しいのがストーリーです。

再開後について「展開が早くなった」「以前ほど会話が多くない」と感じる読者もいます。

ここで大前提として知っておきたいのが、制作陣は好き勝手に新しい『ベルセルク』を書いているわけではないということです。

白泉社が2022年に発表した連載再開の説明では、三浦先生が生前、親友だった漫画家の森恒二先生にストーリーやエピソードを話していたこと、スタジオスタッフや編集担当にも構想を共有していたことが明かされています。

さらに構想メモやキャラクターデザインも見つかったとされています。

一方で、完成したネームがすべて残っていたわけではありません。

ここがめちゃくちゃ大事。

物語の目的地を知っていることと、そこへどう歩くかを知っていることは別物なんですよ。

例えば映画監督が「主人公は最後に駅へ行き、そこである人物と会う」とスタッフに伝えていたとします。

それだけでは、駅までの道で何を見るのか、どんな表情をするのか、何秒沈黙するのかまでは分かりません。

漫画も同じです。

三浦先生の魅力は大筋だけではなく、目的地までに存在する寄り道にもありました。

キャラクター同士の何気ない会話だったり、戦いとは無関係な小さな表情だったり。

その積み重ねが後から効いてくる。

再開後は三浦先生から直接伝えられていた部分を中心に漫画化する方針なので、以前より物語の骨格が前へ出て見えるのは不思議ではありません。

再開後の展開について、どこまでが三浦先生の構想そのもので、どの部分に漫画化する際の補完があるのかを読者側から完全に判別することはできません。

推測だけで「ここは森先生が勝手に変えた」と断定するのは避けたほうがいいです。

僕はむしろ、分からない部分を積極的に膨らませない方針だからこそ、展開が以前より速く見えるのではないかと感じています。

ガッツの変化

再開後では、ガッツの雰囲気が変わったと感じる人もいると思います。

ただ、ここについては作画だけで判断すると危ないです。

ガッツという人物は、そもそもずっと同じ精神状態で生きてきたキャラクターではありません。

怒りだけで前へ進む時期もあれば、人との関わりによって違う表情を見せる時期もあります。

その変化そのものが『ベルセルク』の核心のひとつです。

僕が面白いと思うのは、昔のガッツが「外側へエネルギーを放出する人物」だったのに対して、物語が進むほど感情を内側へ抱える場面が増えていることです。

映像的に言えば、叫びながら剣を振るうアップより、何も言わず立っているロングショットのほうが怖い段階に入っている。

だから再開後のガッツを見て「昔より迫力がない」と感じる場面があったとしても、それがすべて作家交代による変化とは限りません。

物語上、本人の精神が変化している部分も混ざっています。

ただ、あえて苦言を呈するなら、内面を読者へ伝えるための小さな積み重ねが以前より少なく感じる場面はあります

三浦先生は、顔のアップを一発置くだけではなく、その前後に手、武器、背中、周囲の人物の視線などを挟んで感情を読ませていました。

その結果、一言も喋っていないのに「今この人の中で何かが壊れた」と分かる。

再開後ではストーリーを前へ運ぶ使命もあるため、そこに使えるページ数が以前ほど多くないように感じるんすよ。

これは仕事でも少し似ています。

誰かから仕事を引き継いだ時、手順書に書かれている作業は再現できます。

でも、その人がなぜ一行空けたのか、なぜこの順番にしたのかという無意識のクセまでは残っていません。

ガッツの「間」にも、それに近いものを感じます。

作者交代の影響

厳密に言えば、『ベルセルク』は単純な意味で別の漫画家へ作者交代した作品ではありません。

現在のクレジットは「原作・三浦建太郎/漫画・スタジオ我画/監修・森恒二」です。

それでも読者側から見れば、三浦先生本人がペンを握っていないという事実はあまりにも大きい。

僕はここを無理に「同じ作品だから気にするな」と言う必要はないと思っています。

違うものは違います。

三浦先生本人しか描けない線も、間も、セリフも確実にあったはずです。

ただし、それと「続きを作ること自体が間違い」という話も別です。

ネットでは、再開を喜ぶ声がある一方、「三浦先生のところで終わってほしかった」という意見もあります。

これ、どちらの気持ちもかなり分かります。

作品を作者そのものだと考えるなら、死去した時点で終わりと考えるのは自然です。

一方、作者が周囲に語り続けてきた結末があるなら、それを読みたいというのも当然。

僕自身、Z世代として作品を見ていると「オリジナルであること」をかなり重く考える反面、漫画やアニメってそもそも多くの人間の手で完成しているという現実も感じます。

特に長期連載は、アシスタントや編集者の積み重ねも含めた巨大な共同作業です。

再開後の『ベルセルク』は三浦先生本人の作品を再現する企画というより、残された人たちが知っている物語の終着点まで橋を架ける試みとして読むと、見え方がかなり変わります。

『ベルセルク』再開はひどいだけなのか

ここまで違和感が生まれる理由を見てきましたが、再開後を否定的な面だけで語るのも違います。

むしろ制作体制を知るほど、「なぜこんな難しい仕事を続けているのか」が見えてきます。

ここからは森恒二先生、スタジオ我画、実際の再開経緯や現在の掲載状況から、もう一段踏み込んで見ていきます。

森恒二の監修

再開後の『ベルセルク』を語るうえで絶対に外せないのが森恒二先生です。

『ホーリーランド』や『自殺島』などで知られる漫画家ですが、『ベルセルク』に関して重要なのは漫画家としての実績以上に、三浦先生との関係です。

白泉社の連載再開発表によれば、三浦先生は長年にわたり森先生へ『ベルセルク』のストーリーやエピソードについて話していました。

つまり、資料を読んで後から物語を推測する監修者ではありません。

制作途中の発想を本人から聞いていた人物です。

この立場、かなり特殊です。

映画で言えば、脚本家が完成稿を残さず亡くなったあと、その作品について何十年も話を聞いてきた親友が残された制作チームと一緒に続きを形にするようなもの。

だから現在の作品は、森先生が新しい『ベルセルク』を書いているというより、自分が三浦先生から聞いた範囲を逸脱しないよう監修するという考え方に近いです。

制作陣は再開時、自分たちが覚えていないエピソードは描かないという趣旨の姿勢も示しています。

僕はこの制約こそ、再開後の長所でもあり、同時に難しさでもあると思っています。

自由に話を膨らませれば漫画として滑らかになるかもしれない。

しかし膨らませすぎれば、それは三浦先生の『ベルセルク』なのかという問題が出る。

だから作品としての自然さと、遺された構想への忠実さが常にぶつかります。

(出典:白泉社「『ベルセルク』再開のお知らせ」)

この公式発表を一度読んでから再開後の漫画を見ると、印象はかなり変わると思います。

スタジオ我画

実際の漫画を描いているのがスタジオ我画です。

三浦先生のもとで『ベルセルク』の制作に携わっていたスタッフが中心となっています。

僕が再開後を読んでいて一番すごいと思うのは、三浦先生そっくりに見える画を描くこと以上に、『ベルセルク』という漫画の画面密度から逃げていないことです。

普通に考えたら、あの作画を引き継ぐとか怖すぎます笑。

巨大建築、甲冑、群衆、怪物、武器、衣装。

しかも読者は世界でもトップクラスに絵へ厳しい『ベルセルク』ファンです。

少し省略すれば「三浦先生ならもっと描いた」と言われる。

似せれば似せたで「何か違う」と言われる。

これ、ほぼ逃げ道がないんすよ。

それでも背景や巨大な画面構成を簡素な漫画へ変えず、『ベルセルク』らしい密度を維持しようとしている。

その姿勢自体はもっと評価されていいと思っています。

一方で、技術的に似せられる部分と似せられない部分も見えます。

建物や装備品のように構造を観察して描ける対象は再現度が高くなりやすい。

逆に人間の顔や芝居は、作者の感覚が直接出ます。

アニメでも同じです。

設定画を完全に共有していても、原画マンによって表情は微妙に変わります。

まして漫画は一人の作家の癖そのものが演出になる媒体。

だから「背景はすごく『ベルセルク』なのに、人物で急に別人っぽく感じる」という現象が起きても不思議ではありません。

スタジオ我画を評価する時は、「三浦先生と完全に同じか」だけでなく、「三浦先生の制作現場を知るスタッフがどこまで作品の文法を継承しているか」という見方も必要です。

連載再開の経緯

三浦建太郎先生は2021年5月に亡くなりました。

その後、『ベルセルク』をどうするのかについて長い間明確な答えは出されませんでした。

そして2022年6月、白泉社が連載再開を正式発表。

同年6月24日発売の『ヤングアニマル』13号から掲載が再開されました。

項目内容
原作三浦建太郎
漫画スタジオ我画
監修森恒二
再開2022年6月24日
掲載誌ヤングアニマル

公式発表で印象的なのは、制作陣自身が三浦先生の原稿を完璧に再現することは不可能だと認めている点です。

ここ、僕はかなり誠実だと思いました。

「三浦建太郎の作品を完全再現します」と宣言していたら、それこそ無理があります。

そうではなく、完全にはできないことを前提に、それでも本人が語っていた物語から逸脱しないよう描く。

このスタンスを知っているかどうかで、「作者が亡くなったのに勝手に続きを作った」という印象はかなり変わります。

もちろん、それでも受け入れられない読者はいると思います。

作品をどこで自分の中の最終回にするかは読者の自由です。

ただ、少なくとも制作の経緯を見る限り、人気作品だから出版社が適当に続編を作ったという単純な話ではありません。

2025年8月には再開後の内容を含むコミックス43巻も発売され、2026年にも連載は継続しています。

もはや再開は一時的な企画ではなく、正式な『ベルセルク』の続きを完結へ運ぶ長期的な制作になっています。

更新が遅い理由

『ベルセルク』を追っていると、次に気になってくるのが掲載ペースです。

再開したとはいえ、毎号必ず掲載される作品ではありません。

ただし「全然進んでいない」という印象だけで見ると、現在の状況とは少しズレます。

2026年には6月12日発売号、6月26日発売号、7月10日発売号で最新話が3号連続掲載されました。

一方、その後の2026年7月24日号から9月11日号までの白泉社公式掲載ラインナップには『ベルセルク』の名前がありません。

つまり、まとまって掲載される時期と間隔が空く時期がある形です。

これについて「遅すぎる」と感じる気持ちはめちゃくちゃ分かります。

続きを待っている側からしたら、読みたいものは読みたいですからね。

ただ、制作環境を考えると毎号掲載を最優先にするのも怖い。

再開後のチームには、普通の漫画制作とは別に「三浦先生ならどうしていたか」という確認作業がついて回ります。

物語だけではありません。

キャラクターデザイン、建築、衣装、軍勢、背景、ページ構成。

三浦先生の残した視覚情報が膨大だからこそ、何かを描くたび過去の作品との連続性も求められます。

映画制作で例えるなら、撮影を進めながら毎カット過去作の美術資料と照合するようなものです。

そりゃ普通の週刊・隔週漫画と同じ速度では難しいと思います。

なので僕は、更新間隔については「速くしてほしい」というファン心理と「急いで崩してほしくない」という気持ちが半々。

ここは本当にジレンマです。

掲載予定は変更される可能性があります。

最新話の掲載号やコミックス発売日など、正確な情報は白泉社や『ヤングアニマル』の公式情報をご確認ください。

完結はいつ?

では『ベルセルク』はいつ完結するのでしょうか。

2026年9月時点で、白泉社から具体的な完結日や最終巻の発売日は発表されていません。

なので「あと何年」「何巻で終了」と断定している情報があっても、公式発表とは分けて見る必要があります。

ただ、再開時の発表にはかなり重要な内容があります。

制作陣は三浦先生から物語のラストエピソードや最後の一コマに関する情報を共有されていたと説明しています。

つまり、終着点そのものが完全に分からない状態で連載しているわけではないということです。

これは個人的にかなり安心材料でした。

長期作品で一番怖いのは、人気があるから延々と話を足して終点が消えていくパターンです。

『ベルセルク』の場合はむしろ逆で、終点を知る人たちが、そこまでどう辿り着くかを慎重に漫画へ変換している。

なので更新が遅いからといって、「結末を考えながら引き延ばしている」と決めつけるのは違います。

僕が気になるのは、むしろ物語を急ぎすぎないかという点です。

ゴールへ到達することだけを優先すると、『ベルセルク』の魅力だった道中の人間ドラマが薄くなる可能性があります。

映画でも、あらすじだけなら10分で説明できる作品を2時間かけて見る理由は、目的地ではなくその途中にある芝居を見るためです。

漫画も同じ。

だから僕としては、何年かかるか以上に「必要な間をどこまで残せるか」を見ています。

なお、コミックスの価格や発売時期などは変更される場合があります。

購入や配信サービスの契約など費用が発生する判断については、最新の公式情報を確認し、必要に応じて販売元やサービスの専門担当者へご相談ください。

『ベルセルク』再開はひどい?

結局、『ベルセルク』の再開はひどいのでしょうか。

僕は、三浦建太郎先生が描いていた時代とまったく同じ作品を期待すると、違和感は避けられないと思っています。

作画の表情、コマの呼吸、セリフと沈黙の配分。

細かく見れば違いはあります。

そこを「気にするな」と言うつもりもありません。

長年読んできた人ほど敏感になるのは当然です。

一方で、再開後を「偽物」「劣化したから読む価値がない」で終わらせるのも、僕にはもったいなく感じます。

スタジオ我画は、三浦先生と無関係な外部チームではありません。

森恒二先生も、資料だけを渡された第三者ではありません。

三浦先生本人から長年物語について聞いていた親友です。

この二者が「自分たちの新しい『ベルセルク』」を描くのではなく、残された構想を可能な範囲で作品へ戻そうとしている。

僕は再開後の一番重要な部分はここだと思います。

そして、ここにはフィクションの外側にあるテーマまで見えてきます。

人が亡くなったあと、その人の仕事や考えを誰かが引き継ぐことは現実社会でもあります。

就職しても、前任者が作った資料、ルール、仕事の癖を受け取る場面は普通にあります。

でも同じ人にはなれません。

むしろ同じ人になろうとするほど、違いが見える。

『ベルセルク』再開後を読んでいると、作品継承ってそういうことなんだろうなと思わされます。

完璧なコピーではない。

だから違和感も残る。

それでも、知っている人間が残されたものを次へ渡そうとする。

再開後の『ベルセルク』は、三浦建太郎先生の代わりを誰かが務める漫画ではなく、三浦先生しか知らなかった物語を、知っている人たちが読者まで届けようとしている漫画なんじゃないでしょうか。

ネットで言われる「作画が違う」「テンポが変わった」という指摘には、僕も分かる部分があります。

でも、それだけで今の『ベルセルク』をひどいと断定する気にはなれません。

むしろ三浦先生本人にはもう描けないという、どうやっても解決できない喪失を抱えたまま、それでも最後まで物語を届けようとしている。

その事実まで含めて読むと、再開後のページは以前とは別の意味で重く見えてきます。

「以前と同じではない」という感想と、「だから価値がない」という結論は別物です。

そこを分けて読むことが、再開後の『ベルセルク』と向き合う一番しっくりくる方法だと僕は感じています。

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