皆さんは『ゲド戦記』という作品を知っていますか?
スタジオジブリ作品の中でも、公開から長い年月が経っているのに、なぜかゲド戦記はひどい、意味不明、つまらないといった感想が今も語られ続けている一本です。
特にアレンが父親を殺した理由、アレンの正体、テルーの正体、原作との違いなど、初見では飲み込みにくい部分がかなり多いんすよね。
さらに、声優がひどいという意見や、宮崎吾朗監督への評価、原作者アーシュラ・K・ル=グウィンの反応、宮崎駿との関係まで作品外の話題もセットで語られがちです。
僕も映像作品として見返すたびに、なんでここまで評価が割れるのか気になってしまう作品です。
ただ、映像のカット割りや人物の間の取り方まで見ていくと、単純に失敗作の一言で捨てるにはもったいない部分もかなりあります。
この記事では物語の重要なネタバレをできるだけ避けながら、なぜ意味不明に感じるのか、そして本当にひどい作品なのかを映像オタク目線で掘っていきます。
- 『ゲド戦記』がひどいと言われる理由
- アレンやテルーが分かりにくい原因
- 原作と映画版で何が変わったのか
- 酷評の一方で評価したい映像表現
『ゲド戦記』がひどいと言われる理由
『ゲド戦記』への不満を見ていると、作画そのものより、物語の説明方法に引っかかっている人が圧倒的に多い印象があります。
冒頭から巨大な世界観と意味深な事件を提示するのに、観客が知りたい情報をかなり意図的に伏せたまま進むんですよ。
この見せ方が作品の不穏さにつながっている一方で、115分ほどの映画としては観客に要求する補完量が多すぎる。
まずは、検索後にモヤモヤしやすいポイントから順番に見ていきます。
意味不明な物語
『ゲド戦記』を初めて見た人が一番引っかかりやすいのは、世界で何が起きているのか分からないまま物語が始まることです。
竜、人間、魔法、世界の均衡といった巨大な概念が次々に出てくるのに、それぞれを説明する時間はかなり少なめ。
しかも主人公のアレン自身が、自分の感情や行動を言葉で説明するタイプではありません。
そのため観客は、世界の異変とアレン個人の異変を同時に読み解かなければならないんですよ。
これ、映像としてはかなり難易度が高いっす。
例えば宮崎駿監督の『千と千尋の神隠し』も、異世界のルールを最初から全部説明してくれる作品ではありません。
でも千尋と一緒に未知の世界へ入る構造なので、観客が知らないことと主人公が知らないことがほぼ一致しています。
だから説明されなくても置いていかれにくいんです。
一方の『ゲド戦記』では、登場人物だけが理解している固有名詞や価値観が序盤から普通に飛び交います。
観客より登場人物のほうが世界を知っている状態が長く続くため、物語への入口がどうしても狭くなります。
映像面でも、説明のためのクローズアップやリアクションを細かく挟むというより、人物を画面の中に置いて沈黙させるカットが目立ちます。
僕はこの乾いたテンポ自体は結構好きなんですが、脚本側の説明不足と組み合わさると、静けさではなく情報不足として受け取られやすい。
『ゲド戦記』が意味不明に見える最大の要因は、設定が難しいこと以上に、観客が物語を理解するための視点人物が機能しにくいことです。
ぶっちゃけ、二度目の視聴だとかなり印象が変わります。
最初からアレンの状態を知ったうえで見ると、序盤の無表情や不自然な態度が別の意味を帯びてくるからです。
ただし映画は基本的に一度目の鑑賞でも成立してほしいので、そこを全部「考察すれば分かる」で片づけるのも違うやろ、とは思います。
父親殺しの理由
『ゲド戦記』を語るとき、どうしても避けられないのがアレンと父親の出来事です。
映画はかなり早い段階で衝撃的な行動を提示しますが、なぜそうなったのかをその場で明確には説明しません。
ここが多くの人にとって最初の巨大な「?」になります。
重要なのは、アレンを単純な悪人として描いているわけではない点です。
彼は恐怖や不安に支配され、自分自身を制御できない状態にあります。
つまり、行動そのものよりも「自分が自分ではなくなる恐怖」が人物造形の核になっている。
ただ、映画として考えると、この重大な出来事に対する心理の積み上げがかなり省略されています。
通常なら事件の前に家族関係や精神状態を何カットか見せておけば、観客は理由を完全に理解できなくても感情の方向だけはつかめます。
『ゲド戦記』はそこを大胆に飛ばします。
結果として、観客から見ると原因と結果の間に巨大な穴が開いて見えるんですよ。
僕自身、就活や仕事で精神的に余裕がなくなった時期に、普段なら絶対に気にしない言葉に過剰反応した経験があります。
人間って追い込まれると、自分でも「なんでこんなこと言ったんやろ」と思う行動を普通に取るんですよね。
だからアレンの制御不能というテーマそのものにはめちゃくちゃリアリティを感じます。
でも、現実で理解できることと、映画内で十分に描写できていることは別問題です。
アレンの行動を世界の異変だけで説明してしまうと、人間ドラマとしては急に見えてしまいます。
ここは『ゲド戦記』のテーマが面白い一方、脚本上かなり賛否が分かれる部分です。
アレンの正体
アレンという人物を理解すると、『ゲド戦記』の見え方はかなり変わります。
彼は勇敢な王子でも、最初から成長を目指す少年でもありません。
むしろ、自分自身から逃げ続けている主人公です。
映像的に面白いのは、感情によってアレンの顔つきがかなり変化すること。
普段はまぶたが重く、視線も落ち気味なのに、感情が暴走する場面では目の形や姿勢まで一気に変化します。
声だけでなく作画そのものが「同じ人間なのに別人のように見える状態」を作っているんです。
そしてアレンにつきまとう影の存在も、単なる怪物として見ると意味が分からなくなります。
この映画が描こうとしているのは、人間の中にある光と闇を二人の存在に分けて可視化することです。
ただ、ここも説明より象徴を優先しています。
要するにアレンの正体を考えるとき、誰か別人に乗っ取られたというより、自分自身を受け入れられず分裂してしまった人物として見るほうが作品のテーマに合います。
僕はここ、Z世代の感覚とも妙にリンクすると思っています。
SNSでは元気に見せながら、実際には不安だらけという状態って珍しくないじゃないですか。
他人に見せている自分と、本当は助けてほしい自分がどんどん離れていく。
アレンの設定を現代的に言い換えるなら、その亀裂をファンタジーとして映像化した人物とも読めます。
テルーの正体
テルーも初見ではかなり謎の多い人物です。
過去の出来事によって他人を簡単には信用せず、アレンに対してもかなり厳しい態度を取ります。
ところが物語が進むにつれ、彼女の存在そのものが『ゲド戦記』の生命観と結びついていきます。
テルーについて細部まで書くと作品の重要部分に触れてしまうため、ここでは正体そのものは伏せます。
ただ一つ言えるのは、彼女は単なるヒロインではありません。
アレンが「死ぬことへの恐怖」に支配されている人物なら、テルーは「生きていること」を肯定する側に配置されています。
その対比が最も分かりやすく現れるのが、派手なアクションではなく静かな日常場面です。
畑、食事、水、動物、風といった生活の感触を何度も画面に入れることで、生きることを思想ではなく身体感覚として見せています。
ここは僕が『ゲド戦記』でかなり好きなところっすね。
ファンタジー映画なのに、世界を救うことより「飯を食う」「働く」「眠る」という営みを長く撮る。
普通ならテンポが悪いと切られそうな場面ですが、実は作品のテーマに一番近いのはこうしたカットです。
テルーを設定だけで理解しようとすると難しく感じますが、アレンとは反対側から「生」を見せる人物だと考えると役割が見えやすくなります。
声優がひどい?
『ゲド戦記』では、アレン役を岡田准一さん、テルー役を手嶌葵さん、ゲド役を菅原文太さんが担当しています。
いわゆるアニメ専門声優を中心に固めた作品ではないため、演技について好みが分かれるのは分かります。
| キャラクター | 声の出演 | 演技の特徴 |
|---|---|---|
| アレン | 岡田准一 | 感情を抑えた低い声が中心 |
| テルー | 手嶌葵 | 素朴で飾らない発声 |
| ゲド | 菅原文太 | 落ち着きと重みのある声 |
| クモ | 田中裕子 | 静けさの中に不気味さを出す演技 |
| ウサギ | 香川照之 | 芝居がかった粘着質な話し方 |
僕は特に岡田准一さんのアレンについて、「棒読みだからダメ」と切ってしまうのは少しもったいないと思っています。
アレンは自分の感情を外へ出せない人物なので、抑揚を抑えた話し方そのものはキャラクターにかなり合っています。
むしろ平静な声と突然噴き出す感情の落差が、アレンの危うさを作っています。
一方、手嶌葵さんのテルーは、いわゆるアニメ的な芝居からかなり離れています。
声を張って感情を説明するのではなく、息や間を残したまま話すので、人によっては平坦に聞こえるかもしれません。
ただ、荒涼とした世界観や生活感のある場面では、その素朴さが妙にハマるんですよ。
個人的には、声優がひどいというより、作品全体が感情を外へ出さない演出なので、その静けさが声の芝居にも集中して見えてしまうのだと思います。
つまらない評価
『ゲド戦記』をつまらないと感じる人の気持ちも普通に分かります。
なぜなら、ジブリ作品に期待しがちな「冒険している感」が意外と少ないからです。
竜や魔法使いが登場するので、設定だけを見ると大規模なファンタジーアクションを想像します。
しかし実際には、移動、会話、農作業、沈黙といった時間にかなり尺を使います。
敵との対決をどんどん積み上げる映画ではありません。
しかも前半で提示された世界規模の異変に対して、途中から物語の焦点がアレン個人の内面へ寄っていきます。
そのため「最初に見せた竜や世界の異常はどうなったん?」という感覚が残りやすい。
ここは僕も初見でめちゃくちゃ気になりました。
脚本の構造として見ると、世界の危機を外側の物語、アレンの恐怖を内側の物語として並行させようとしています。
問題は、その二本が最後まで完全には重ならないことです。
だからテーマは分かっても、物語としてスッキリしない。
一方で、背景美術や画面の空気感はかなり魅力があります。
特に街では建物をただ背景として置くのではなく、人物を小さく配置して空間の広さを見せるカットが多い。
宮崎駿作品のように画面内のあらゆる物が絶えず動くタイプではなく、静止に近い画面を長く見せることで荒廃感を出しています。
面白さの方向が「冒険」より「沈黙と不安」に寄りすぎている。
これが『ゲド戦記』を好きな人とつまらないと感じる人を分けている一番大きなポイントだと思います。
『ゲド戦記』は本当にひどいのか
ここまで欠点をかなり書きましたが、僕は『ゲド戦記』を単純な駄作とは思っていません。
むしろ、目指しているテーマと映画としての伝達方法がうまく噛み合わなかった場面が多い作品、という感覚に近いです。
そして評価を考えるうえで避けられないのが、原作との関係と宮崎吾朗監督を取り巻いていた制作背景です。
原作との違い
映画『ゲド戦記』は、アーシュラ・K・ル=グウィンによる長編ファンタジー小説シリーズを原作としています。
ただし原作を一巻から順番に映画化した作品ではありません。
映画では特にシリーズ第三巻を中心とする要素を取り込みつつ、複数の巻や宮崎駿による『シュナの旅』のイメージなどを組み合わせています。
ここを知らずに原作ファンが見ると、かなり戸惑うと思います。
名前は同じでも人物の設定や役割が変わっていたり、原作では時間をかけて形成された概念が一本の映画の中へ圧縮されていたりするからです。
原作の『ゲド戦記』が面白いのは、魔法を使って敵を倒すことより、自分の内部に存在するものと向き合うことに重点を置いている点です。
いわゆる善と悪の二陣営を作って戦わせるファンタジーとはかなり違います。
映画版もその思想を受け継ごうとはしています。
ただ、115分前後の劇場映画として成立させるため、対立する人物や危機を視覚的に分かりやすく配置しました。
それによって映画らしい山場は作れた一方、原作の哲学と映画のアクションが別方向へ走ってしまった印象もあります。
これ、原作付き映画でよく起きる問題なんですよね。
原作をそのまま映像にしても映画としてテンポが出ない。
だから改変する。
でも改変すると、今度は原作が時間をかけて作った因果関係が消える。
『ゲド戦記』の場合、設定を変更したこと自体よりも、原作から持ってきた思想と映画独自の展開を一本の物語として接続しきれなかった部分が批判につながったと僕は見ています。
原作者の評価
ここはネット上の噂だけで語らず、原作者本人の言葉を見るのが一番です。
ル=グウィンは映画を全面的に否定したわけではなく、美しい映像や農作業など日常を映した場面、動物の表現について好意的に触れています。
一方で、人物や物語の変更、暴力の扱い、物語の一貫性についてはかなり厳しい意見を残しています。
特に重要なのは、映画化だから原作と同じでなければならない、と主張していたわけではないことです。
小説と映画は違う表現なのだから大きな変更が必要になる場合もある、としたうえで、人物や物語の核との距離を問題にしています。
つまり「改変したから怒った」という単純な話ではないんですよ。
原作が何十年もかけて読者へ伝えてきた考え方と、映画で提示された因果関係に隔たりを感じたという話です。
そしてアレンの行動についても、映画の中で十分な動機が提示されていないという趣旨の疑問を述べています。
ここは僕が映像だけを見て感じる引っかかりともかなり一致します。
それでも、ル=グウィンが映画のすべてを嫌っていたかのように扱うのも違います。
映像美や生活場面、声の演技など評価している部分もちゃんとある。
原作者の評価もまた「全部ひどい」ではなく、評価する映像表現と納得できない脚色が明確に分かれていたと見るのがフェアです。
宮崎吾朗の評価
『ゲド戦記』が特殊なのは、作品そのものと宮崎吾朗監督への評価がほぼセットになってしまったことです。
しかも本作は宮崎吾朗監督にとって初の長編アニメーション監督作品でした。
父親が宮崎駿。
制作会社はスタジオジブリ。
原作は世界的に知られる『ゲド戦記』。
冷静に考えると初監督作品として背負うものがデカすぎます。
だからといって作品上の問題を「新人だったから仕方ない」で済ませるつもりもありません。
脚本の情報配分や人物の感情導線には、やっぱりもっと見せてほしかった部分があります。
一方で、映像を見ると宮崎駿のコピーを作ろうとしていない部分も結構あります。
例えば人物を激しく動かして快感を作るより、固定気味の画面で沈黙を見せる。
背景も細かい物量で圧倒するというより、建物や地面の面積を広く取り、人物をそこへ置くことで孤独を見せています。
派手ではありません。
ただ、アレンの精神状態にはかなり合っているんです。
僕が惜しいと思うのは、そうした映像の方向性が物語後半になるにつれて通常のファンタジー的な対決へ近づいていくこと。
前半の乾燥した空気を最後まで貫いていたら、今とはかなり違う評価になっていた気がします。
その後、宮崎吾朗監督は『コクリコ坂から』なども手掛けています。
『ゲド戦記』だけを見て監督としての全能力を断定するのは、さすがに乱暴です。
僕は『ゲド戦記』を、完成度だけで見るより「宮崎吾朗監督が何を映画として選び、何をまだ画面へ変換しきれなかったのか」が最も露出した作品として見ると面白いと思っています。
宮崎駿との確執
「宮崎駿と宮崎吾朗は不仲だったのか」という話も、『ゲド戦記』ではやたら検索されます。
ただ、「確執」という二文字だけで親子関係を断定するのはかなり危険です。
宮崎吾朗監督自身は、制作当時に父・宮崎駿が自分の監督就任へ反対していたことを公に語っています。
一方で、宮崎吾朗監督は宮崎駿を監督として高く評価しており、幼少期から父の作品を通して父親という人間を理解しようとしていたことも明かしています。
ここがめちゃくちゃ複雑なんですよ。
ただの師弟関係なら仕事上の反対で終わります。
でも親子でもあるから、作品への批判と家族としての感情を完全には分けられません。
しかも『ゲド戦記』という作品そのものが、「父」と「息子」を連想させる要素を序盤から抱えています。
制作背景を知った後に見ると、どうしても宮崎家の関係まで重ねたくなってしまう。
ただし、ここは作品内の出来事をそのまま宮崎吾朗監督本人の心理だと決めつけるべきではありません。
創作物と作者の人生が似ているからといって、全部が自伝になるわけではないからです。
僕が興味深いと思うのは、「偉大な存在の影から逃れられない」というアレンの感覚と、世界的監督の息子として作品を発表する宮崎吾朗監督の立場が結果的に重なって見えることです。
親と比べられる。
前任者と比べられる。
会社に入れば先輩と比べられる。
SNSなら同世代の成功者と比べられる。
僕らの世代にもめちゃくちゃ身近な話なんすよね。
「自分として評価されたいのに、比較対象から逃げられない」という感覚です。
だから宮崎駿との関係をゴシップとして見るより、巨大な父の名前を背負って初監督作品を撮ったという状況自体が、『ゲド戦記』を見るうえで興味深い背景だと思います。
『ゲド戦記』ひどいの総括
結局、『ゲド戦記』はひどい作品なのか。
僕の答えは、欠点はかなり目立つけれど、「ひどい」の一言だけで終わらせるには面白い部分が多すぎる作品です。
特に初見で意味不明と感じる原因については、観客側の理解力ではなく映画側の情報提示にも原因があります。
アレンの過去、世界の異変、影の意味、魔法の仕組みといった情報をかなり省略しているため、一本の映画として見たときに因果関係を追いにくい。
さらに原作シリーズの複数の要素を一本へ持ち込んだことで、原作を知らない人には説明不足、原作を知っている人には改変が目立つという、かなり厳しい位置に入ってしまいました。
一方、映像までひどいとは僕は全然思いません。
荒涼とした街の空気、人物を画面の端へ置く構図、長めの沈黙、生活を丁寧に見せる時間、アレンの表情変化など、見返して初めて気づく演出が結構あります。
そして手嶌葵さんの歌と声、菅原文太さんの落ち着いた語り、田中裕子さんの不気味な芝居など、音の面でも独特の質感があります。
派手なジブリアニメを期待すると肩透かしになる。
でも陰鬱な心理劇として見ると、急に面白くなるんです。
『ゲド戦記』は、物語を分かりやすく伝える映画としてはかなり不親切です。
しかし、不安や自己否定、生と死への恐怖を映像化した作品として見ると、ほかのジブリ作品にはない異様な手触りがあります。
僕だったら、初見で「何これ、意味分からん」となった人ほど、数年後にもう一回見てほしいです。
学生時代に見るアレンと、仕事や人間関係で一度しんどい時期を通った後に見るアレンでは、たぶん印象が変わります。
昔の僕なら「なんでこんな暗い主人公なん?」で終わっていました。
でも今見ると、自分の中の不安をうまく説明できず、逃げたいのに逃げた自分まで嫌いになっていく感じが妙に生々しい。
そこにこの映画の面白さがあります。
だから『ゲド戦記』がひどいという検索結果だけを見て、最初から駄作だと決めてしまうのはちょっともったいないっす。
逆に「隠れた完璧な名作です」と持ち上げる必要もありません。
分からないところは普通に分からないし、説明してくれよと思う場面もある。
それでも、その不完全さまで含めて何度も議論したくなる。
公開から長い年月が経ってもゲド戦記はひどいのかと検索され続けていること自体、この作品が完全に忘れ去られるタイプの映画ではなかった証拠なのかもしれません。
なお、作品情報や今後の放送、配信、販売状況などは変更される場合がありますので、正確な情報は公式サイトをご確認ください。
また、著作物の利用や引用など権利に関する判断が必要な場合は、最終的な判断は専門家にご相談ください。
アニメ・映画が大好きで毎日色んな作品を見ています。その中で自分が良い!と思った作品を多くの人に見てもらいたいです。そのために、その作品のどこが面白いのか、レビューや考察などの記事を書いています。
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