こんにちは、たたみの冷凍みかん箱管理人のtatamiです。この記事では、映画『リリィ・シュシュのすべて』について、あらすじやラストの結末、キャラクターの心情、そしてエーテルというキーワードの意味まで、ネタバレありでじっくり語っていきます。リリィシュシュのすべてのネタバレを知りたいけれど、内容がヘビーだと聞いて身構えているあなたにも、できるだけ分かりやすく届くようにまとめてみました。
リリィシュシュのすべてのネタバレやあらすじ、登場人物の関係を整理したいと思って検索にたどり着いた人の中には、「いじめがきついって聞いた」「鬱映画って本当?」「トラウマになるって聞いたけど大丈夫?」と、不安混じりに情報を探している人も多いはずです。私も最初はそんな感じで、「観る前にある程度は内容を知っておきたい派」だったので、そのモヤモヤはすごくよく分かります。
さらに、リリィシュシュのすべての結末ネタバレや考察を読もうとすると、星野がなぜあそこまで変わったのか、津田や久野に何が起こったのか、そしてコンサート会場での刺殺シーンに込められた意味など、気になるポイントが一気に押し寄せてきますよね。ネット掲示板やエーテルという言葉も独特で、映像だけだと情報量が多すぎて「理解はできるけど整理しきれない」みたいな状態になりがちかなと思います。
そこでこの記事では、リリィシュシュのすべてのネタバレを時系列で整理しながら、ストーリーの流れやキャラクターの心理をゆっくり追っていきます。単なるあらすじ紹介で終わらせず、いじめや匿名性、音楽が持つ救いと麻薬性などを、アニオタとしての自分の目線でかみ砕きつつ、あなたが自分の言葉で語れるくらいまで落とし込むのが目標です。
重たいテーマが多い作品ではありますが、読み進めるうちに「このシーンにはこういう狙いがあったのかも」「エーテルってこういう感覚のことかな」と、少しずつピースがはまっていく感覚を味わってもらえたらうれしいです。ここから先は、作品を一度観た人の復習にも、これから観る人の予習にもなるように書いていくので、気になるところだけつまみ読みしてもらっても大丈夫ですよ。
- 映画『リリィ・シュシュのすべて』のネタバレあらすじと時系列
- 星野が豹変した理由と、いじめがエスカレートしていく構造
- 久野・津田の悲劇、そしてコンサート会場での結末の意味
- エーテルや匿名掲示板が象徴するものと、私なりの感想・考察
『リリィシュシュのすべて』のネタバレ全解説
ここからは、リリィシュシュのすべてのネタバレを一気に整理していきます。まずは物語全体の流れをざっくり押さえつつ、蓮見と星野の友情、沖縄旅行をきっかけにした歪みの始まり、いじめや暴力のエスカレート、久野・津田に起こる悲劇、そしてリリィのコンサートで迎える最終局面まで、順番に追いかけてみましょう。流れをつかんでおくと、後の考察パートもグッと理解しやすくなるはずです。
物語概要
『リリィ・シュシュのすべて』は、一言でまとめると「地方都市で生きる中学生たちの、どうしようもなく救いの少ない青春」を描いた作品です。主人公は中学2年生の蓮見雄一。成績も運動も特別目立つわけではなく、クラスの中では空気まではいかないけれど「背景に溶け込みがち」なタイプの男の子です。家庭もごく普通で、大きな事件があるわけではありませんが、その「普通さ」ゆえの息苦しさみたいなものがじわじわ伝わってきます。
雄一の唯一の拠り所が、カリスマ歌手リリィ・シュシュの音楽。彼女の楽曲は、日常のざらついたノイズを一瞬だけすべて洗い流してくれるような、透明で冷たい、けれどどこか暖かい響きを持っています。雄一はその音楽に救われるようにのめり込み、やがてネット上にファンサイト兼掲示板「リリイ・ホリック」を立ち上げて、管理人として活動するようになります。
掲示板でのハンドルネームは「フィリア」。ここでは、現実のクラスでは絶対に見せないような、少し達観した言葉や、リリィの音楽についての熱い語りをポンポン投げていきます。現実世界では立場が弱くても、ネットの中では「リリィのことを誰よりもわかっている人」になれる。その感覚に、当時のネット文化に触れていた人ならかなり共感するはずです。
そんな雄一の前に現れるのが、クラスメイトの星野修介。成績優秀で運動もできて、教師からの評価も高い「優等生ポジ」の男の子です。最初のうちは二人とも、どこか距離を取りながら探り合っている感じがありますが、リリィ・シュシュの音楽という共通の「救い」を通じて、少しずつ距離を縮めていきます。
物語の前半は、この二人の奇妙な友情と、学校の日常を切り取った静かなシーンが多めです。しかし、沖縄への修学旅行を境に、一気にトーンが変わります。星野が事故に遭い、「死」を間近に感じる経験をしてからの後半は、いじめと暴力の描写が激しくなり、鬱映画と呼ばれる理由が分かるくらいの暗さに突入していきます。
| キャラクター | 立ち位置 | 象徴しているもの |
|---|---|---|
| 蓮見雄一 | 主人公・いじめられっ子 | 弱さと罪悪感、逃避と救いへの渇望 |
| 星野修介 | 優等生から加害者へ | 虚無と支配欲、暴力としての「生の実感」 |
| リリィ・シュシュ | 画面にほとんど姿を見せない歌姫 | エーテル、救い、偶像崇拝の対象 |
| 久野陽子 | ピアノが得意な少女 | 現実世界に残された「純粋なエーテル」 |
| 津田詩織 | 経済的に追い詰められた少女 | 構造的な搾取と絶望、社会の歪み |
こうやって整理してみると、物語全体が「エーテル(救い)」と「ダート(汚れ)」のせめぎ合いとして設計されているのが分かりやすくなります。ここから先の各セクションでは、この全体像を頭の片隅に置きつつ、具体的な出来事を追っていきましょう。
序盤の関係
序盤のハイライトは、何と言っても雄一と星野の関係性です。ここ、めちゃくちゃ大事なパートです。後半の地獄みたいな展開を知っていると忘れがちですが、最初の星野は「ちょっととがってるけど、根は悪くなさそうな優等生」という印象で描かれています。
たとえば、授業中の何気ない会話や、放課後に二人でだらっと過ごすシーン。そこで交わされる言葉は、特別ドラマチックではないけれど、「この年齢の男子同士ってこういう距離感だったよな」と妙に刺さるリアリティがあります。お互いの家族事情をそこまで深く話すわけでもないけれど、学校の中では確実に「一番一緒にいる時間が長い相手」になっていく、そんな関係です。
そして、二人の距離が一気に縮まるのが、リリィ・シュシュの存在です。あるタイミングで、雄一がリリィのCDを持っていることに星野が気づき、「お前も聴いてるの?」みたいな流れから、音楽の話に火がつきます。ここで語られる「初めてリリィを聴いたときの感覚」が、どちらも本当に切実で、二人が同じ「エーテル」を見ていることが分かるんですよね。
リリィの曲を聴くときの静かな高揚感、イヤホン越しに世界が少しだけ違って見える感じ。そういう感覚を共有できる相手って、ただのクラスメイト以上の存在になります。星野にとっても、雄一は「自分の弱さや救われたい気持ちを、少しだけ見せられる相手」だったように思います。
「親友」と「観察対象」のあいだ
ただ、この時点からすでに、星野の中にはどこか醒めた部分も見え隠れしています。雄一が純粋にリリィを「救い」として語るのに対して、星野は少し斜に構えた言い方をすることが多い。とはいえ、そこには冷笑というより、「本当に救われるのか?」と自分に問い続けているような迷いがあるように感じます。
ここで面白いのが、雄一の視点から見ると星野は完全に「憧れの親友」ポジションなのに、星野の側から見ると、雄一はどちらかというと「自分の観察対象に近いもの」になっている気配があるところです。テストの点数、運動能力、女子からの人気など、あらゆる面で上に立つ星野にとって、雄一は「自分が持っていない弱さ」を体現している存在なのかもしれません。
この微妙なズレが、後半の関係性の崩壊をより悲しいものにしています。あなたも学生時代を思い出してみると、「自分は親友だと思ってたけど、相手からするとそうでもなかったかもしれないな」という人が一人くらいいるんじゃないでしょうか。あの感覚を、もっと血の通った形で見せてくるのがこの序盤だと感じています。
序盤を丁寧に描いているからこそ、後半の星野の変貌が「ただの悪役化」ではなく、「かつて確かに存在した友情がねじれて破綻した結果」として受け止められるのが、この作品のいやらしいくらい上手いところだと思います。
沖縄事故
物語の空気がガラッと変わるターニングポイントが、沖縄への修学旅行です。ここまでは、多少のギスギスはありつつも、一応「青春映画の範囲内」で収まっていた雰囲気が、一気に不穏な方向へと傾いていきます。
沖縄旅行では、クラスメイトたちとのちょっとしたトラブルや、夜の集まり、海での遊びなど、いかにもなイベントが続いていきます。その中で、星野はダイビング中のトラブルに巻き込まれ、溺れかけるという事故に遭います。画面としては、そこまで派手にホラー演出をしているわけではないのですが、水中での焦りや、誰も助けられない感じがかなり生々しいです。
この「死にかけた経験」が、星野の価値観を根本から変えてしまったように見えます。事故から戻ってきた彼は、以前の「優等生らしい柔らかさ」をほとんど失い、どこか「何もかもどうでもいい」と投げやりになったような、虚無感をまとい始めます。
死の間際で見えてしまったもの
私なりの解釈としては、星野は沖縄の海で、自分が信じていた「エーテル」の限界を見てしまったんだろうなと思っています。死にかけている瞬間、リリィの音楽は流れてこないし、エーテルが自分を守ってくれるわけでもない。あのとき、彼は純粋な恐怖と、世界から完全に切り離された感覚だけを味わったはずです。
その結果として、彼の中で「どうせいつか死ぬなら、綺麗ごとだけ信じてても仕方ない」という思考が強まっていったのではないでしょうか。生きている実感を得るために、もっと強烈な刺激が欲しくなる。誰かを支配したり、傷つけたりすることでしか、「自分がここにいる」という感覚を得られなくなっていく。そのスタートラインが、この沖縄事故にあるように見えます。
あなたも、人生の中で「価値観がひっくり返った瞬間」ってありませんか? 大きな病気や事故、家族の事情など、何かをきっかけに、それまで信じていたものが一気に色あせて見えてしまうことがあります。この映画は、その極端なバージョンを星野というキャラを通して見せている感じがします。
現実の世界でも、子どもや若者が学校生活や家庭環境のストレスから深刻な状況に追い込まれてしまうケースは少なくありません。日本の10代の死因の上位に自殺が含まれている状況については、厚生労働省の自殺対策白書でも詳しく分析されています(出典:厚生労働省「令和6年版 自殺対策白書」)。作品の内容を現実と結びつけすぎる必要はないですが、「しんどくなったら一人で抱え込まない」という感覚だけは、フィクションを通してもしっかり持っておきたいところかなと思います。
暴力の始まり
沖縄から戻ってきた星野は、もはや以前とは別人です。ここからが、本格的ないじめと暴力のフェーズ。観ている側の胃がキリキリし始めるゾーンですね。星野はまず、クラス内の力関係を書き換えるところから動き始めます。
それまで幅をきかせていた不良グループを、殴り合いや恫喝でねじ伏せ、一気に「頂点」の座に座り直す。その姿は、もはや優等生ではなく「恐怖で支配するボス」のようです。教師の前では相変わらず優秀な生徒の仮面をかぶりながら、裏では暴力と金銭の要求を繰り返す。この二重構造が、本当に気持ち悪いほどリアルなんですよね。
そして、その支配構造の中で最も弱い立場に置かれてしまうのが、かつての「親友」だった蓮見雄一です。最初は軽い雑用やおつかいから始まり、「代わりに万引きしてこい」「金を持ってこい」といった要求へと次第にエスカレートしていきます。雄一は最初こそ戸惑いつつも、星野の怒りを買うことへの恐怖から、少しずつ従うようになっていきます。
被害者であり、加害者でもあるポジション
ここで重要なのが、雄一がただ一方的に殴られ続ける被害者として描かれていないことです。星野の機嫌を取るため、あるいは自分への矛先を少しでもそらすために、彼は時に他のクラスメイトをいじったり、星野の命令に乗っかって誰かを笑いものにしたりしてしまう。つまり、被害者でありながら、連鎖の一部として加害にも加担してしまう立場に追い込まれます。
この「どちらの側にも完全にはなりきれない中途半端さ」が、雄一のキャラクターをすごく人間らしくしています。あなたも、何かの場面で「本当は止めたかったのに、空気に流されてしまった」という経験が一度はあると思います。あの感覚を、もっと過酷な形で見せられているのがこのパートです。
いじめの構造って、「悪い奴」と「やられる奴」という二択ではなく、その周囲にいる多数のグレーゾーンの存在によって支えられています。見て見ぬふりをする人、笑ってしまう人、止められないままそこにいる人。作品はその中でも、特に「止められなかった人」の罪悪感にフォーカスしている印象です。
さらにタチが悪いのは、リリイ・ホリックでの活動が続いていることです。現実では星野の暴力に怯え、万引きやパシリを続ける一方で、ネットでは相変わらず「フィリア」としてリリィの音楽の純粋さを語り続ける。この二重生活のギャップが、本人の中の自己嫌悪を加速させていきます。
「現実では何もできないくせに、ネットでは綺麗ごとだけ言っている」という矛盾に気づきながらも、それでも掲示板から離れられない。なぜなら、そこしか居場所がないから。このあたりの描写は、SNSが当たり前になった現代から振り返っても、かなり普遍性があるなと感じます。
久野の悲劇
暴力の矛先は、やがて久野陽子に向かっていきます。彼女は、ピアノの才能があり、どこか静かで芯の強い女の子として登場します。教室の中でも、いわゆるスクールカーストの上でも下でもない絶妙な位置にいて、星野たちの横暴に対しても簡単には折れないタイプです。
久野は、星野グループに対して正面から反抗する場面もあり、その態度が星野の支配欲を逆なでする形で積み重なっていきます。「自分のルールに従わない奴」がクラスに一人でもいると、支配者的な立場の人間は不安になるものです。星野にとって、久野は「従わせたいのに、うまく従わせられない存在」として、次第に執着の対象になっていきます。
そして迎える最悪の事件が、星野たちによる集団レイプです。詳細な描写はここではあえて踏み込まないでおきますが、現実の延長線上にある暴力として描かれているため、ホラー映画のような演出以上に精神的なダメージが大きい場面です。何よりもきついのが、その現場に雄一が居合わせていること。
「止められなかった」ことの重さ
雄一は、星野たちの暴走を目の前にしながら、何もできずに立ち尽くします。止めることもできないし、その場から逃げ出すこともできない。結果として、久野の視点から見れば「そこにいたのに助けてくれなかった人」になってしまうわけです。
これが、雄一の心に深く突き刺さったまま抜けなくなるトゲになります。彼自身、被害者でありながら、同時に共犯者でもある。リリイ・ホリックで「純粋な音楽の世界」について語っていた自分が、現実では最悪の暴力を見過ごしてしまった。そのギャップが、彼の自己イメージを粉々に砕いていきます。
久野はこの事件のあと、学校から姿を消します。転校した、という形で処理されますが、それが彼女にとってどれほど残酷な「終わり」なのかは、観ている側には痛いほど伝わってきます。ピアノという才能も、おそらく前のようには弾けないだろうと想像できてしまうからこそ、余計にきつい。
個人的に、久野は「現実世界に残された数少ないエーテル」の象徴だと思っています。リリィの音楽が遠くから聞こえてくる理想のエーテルだとしたら、久野のピアノは、教室という生々しい場所にかろうじて残っていた純粋さ。その音が暴力によって踏みにじられた瞬間、物語は完全に「救いのないゾーン」に入ってしまうんですよね。
津田の転落
もう一人の重要な女性キャラクターが、津田詩織です。彼女は、久野とは違う方向から追い詰められていきます。家庭の経済状況が厳しく、その弱みにつけこむような形で、星野グループに援助交際やブルセラ行為を強要されてしまうんです。
津田は、最初から完全に折れているわけではありません。彼女なりに現実と戦おうとしている場面もあり、「好きでこうなったわけじゃない」というプライドも見え隠れします。でも、相手はお金と暴力を背景にした支配者側。大人たちは彼女を守ってくれず、学校も本当の意味では彼女の味方になってくれません。
この構図は、単なる「ワルい中学生の話」ではなく、社会全体の縮図に近いものを感じます。弱い立場の人にしわ寄せが集中し、それを見て見ぬふりする構造。津田は、その最前線に立たされてしまった存在と言えます。
逃げ場を失った先にあるもの
物語の中で、津田にはほとんど「逃げる選択肢」が提示されません。家を出る、学校をやめる、大人に相談するといった道は、現実的な選択肢として描かれないまま、彼女の世界はどんどん狭まっていきます。やがて彼女は、校舎(もしくはビル)の屋上から投身自殺を図るという、最も痛ましい結末を迎えます。
久野の悲劇が「暴力による一瞬の破壊」だとしたら、津田の悲劇は「日常の中でじわじわと削られていった結果の破綻」です。どちらも同じくらい重く、どちらも簡単には言葉にできないほど苦いものですが、津田の方がより現実に近い怖さを持っていると感じました。
あなたも、ニュースなどで「いじめを苦にして」あるいは「家庭の事情から」命を絶ってしまった子どもの話を見聞きしたことがあると思います。そういった現実のニュースと、この映画の津田の姿が頭の中で重なってしまうと、正直、胸のあたりがずっと重たくなります。
もし、いまこの記事を読んでいるあなた自身が、学校や仕事、家庭などのことでかなり追い詰められているとしたら、「この作品を観るタイミング」だけは本当に慎重に選んでほしいです。苦しいときには、信頼できる人や相談窓口、医療機関などを頼ってほしいですし、「フィクションでさらに自分を追い込む必要はない」ということも忘れないでください。正確な情報や相談窓口については、各自治体や公的機関の公式サイトを確認しつつ、最終的な判断は専門家にも相談しながら進めてもらえたらと思います。
終盤の対決
物語はやがて、リリィ・シュシュのコンサート会場という、ある意味で「物語の中心」にふさわしい場所へと収束していきます。ここまでに積み重ねられた絶望や罪悪感、怒り、裏切られた信頼が、すべてこの場所に持ち込まれるイメージです。
雄一は、リリィのライブチケットを手に入れ、星野を誘います。表向きは「一緒に行こうぜ」という軽いノリに見えますが、その裏にはさまざまな感情が渦巻いているように思えます。かつて一緒にリリィの音楽を語り合った相手と、もう一度同じ空間でエーテルを感じたい気持ちと、ここで何かを終わらせたいという衝動。その両方が混ざり合った結果の選択なのかなと感じます。
ライブ会場では、リリィの歌声が響き、観客たちはエーテルに酔いしれています。その光景は、それまで描かれてきた学校の陰鬱な空気とは対照的で、まさに「救いの空間」として映ります。しかし、その中に立っているのは、久野を傷つけ、津田を追い詰め、雄一の心をボロボロにした星野です。
星を呼ぶ声=星野、というほぼ確信
ライブの最中、決定的な描写として出てくるのが、星野の腕に巻かれた緑色のブレスレットです。これは、掲示板「リリイ・ホリック」で雄一=フィリアが頻繁にやり取りしていたユーザー「星を呼ぶ声」が持っていると示されていたアイテムと同じもの。つまり、ネットの中で唯一心を許せていた相手と、現実で自分を徹底的に追い詰めた加害者が、同一人物だった可能性が一気に浮上するわけです。
これに気づいた瞬間、雄一の中で、現実とネット、エーテルとダートが完全に衝突してしまったように見えます。救いのためのコミュニティだと思っていた場所が、実は加害者の居場所でもあった。その事実は、「自分の存在していたどの場所にも、本当の意味での安全地帯はなかった」という絶望につながります。
このあたりの流れは、今のSNS文化を考える上でもかなり示唆的です。匿名で優しい言葉をくれる誰かが、現実ではまったく違う顔を持っているかもしれない、という可能性は今も変わりません。そこまで疑って生きるのもしんどいですが、「完璧に安全な場所はない」という前提は、頭の片隅に置いておいて損はないかなと思います。
結末の意味
そして、物語はとうとう最終局面へ。ライブ会場の外で、雄一は星野をナイフで刺します。このシーンは、映画全体の中でも最も緊張感が高く、同時に、何度観ても「ここしかなかったのか」と自問自答させられる場面です。
刺された星野は倒れ込み、周囲は混乱に包まれます。その中で雄一は、星野を指さしながら「星野修介が犯人だ」と叫び、その場を離れようとします。この行動には、自己保身と復讐、そして「星野を悪として固定することで、自分の行為をギリギリ正当化しようとする心理」が入り混じっているように感じます。
救済としての殺人、あるいは完全な破綻
雄一の行動をどう受け止めるかは、観る人によって本当に分かれるところです。「あれは許されない犯罪行為でしかない」と切り捨てることもできるし、「あそこまで追い詰められたら、誰かを壊すことでしか前に進めないこともある」と感じてしまう人もいると思います。
私個人の感覚としては、雄一の行為は倫理的には完全にアウトだけれど、心理的には理解できる部分がある、というかなり複雑な位置にあります。久野や津田を傷つけ、自分自身を壊した星野を、最後のエーテル空間で葬る。これは、「汚された世界の中で、自分なりの線引きをするための行為」でもあったのかなと思うんですよね。
ただ同時に、リリィの音楽が象徴していた「暴力ではない形の救い」は、この瞬間に完全に崩壊したとも言えます。エーテルを守るためにダートを選んでしまった時点で、雄一は星野と同じ側に足を踏み入れてしまったわけです。だからこそ、逮捕される彼の表情には、少しだけ安堵が混ざりつつも、完全な救いはありません。
ラストシーンについては、「暴力の連鎖を自分の手で終わらせるための犠牲」と見るか、「救いを求め続けた結果の破綻」と見るかで、作品全体の印象がかなり変わってきます。どちらにしても、あの一刺しが「スカッとする復讐劇」ではまったくないところに、この映画の残酷な誠実さがあると感じています。
『リリィシュシュのすべて』のネタバレから読み解く魅力
ここまでで、リリィシュシュのすべてのネタバレあらすじと結末の流れはざっくり追えたかなと思います。ここからは、作品を観終わったあとにじわじわ効いてくるポイント、つまり「なぜこの映画がこんなにも心に残るのか」という部分を掘り下げていきます。映像美と暴力のギャップ、エーテルという概念、匿名掲示板の怖さ、そしてtatamiとしての個人的な感想まで、ラフなテンションで深読みしていきますね。
映像美
リリィ・シュシュのすべてを語るうえで、映像の美しさは絶対に外せません。正直、内容だけ聞くと「ひたすら暗そう」「しんどいだけの映画なのでは?」と思うかもしれませんが、画面自体は本当にびっくりするくらい綺麗なんですよ。田んぼの緑、空の青、夕暮れのオレンジ、夜の街の光。どのシーンを切り取っても、ポスターにできるレベルで絵になるカットが続きます。
特に印象的なのが、田園風景の中を自転車で走るシーンや、何気ない帰り道のカット。そこだけ見ると「爽やかな青春映画」にしか見えないのに、登場人物たちが抱えているものは救いのない闇でいっぱい、というギャップがすごいです。画面の明るさと話の暗さのコントラストが、観ている側の感情を常に揺さぶってきます。
光が強いほど、影も濃くなる
私がこの映画で特にうまいなと思うのは、「光の使い方」です。教室に差し込む白い光、夕方の斜めからの光、電車の窓から差し込む一瞬のきらめき。そういった光の演出が、キャラクターたちの心情と絶妙にリンクしていることが多いです。
たとえば、ほんの少しだけ心が軽くなっている場面では、自然光が柔らかく差し込んでいたり、遠くの空が広く映っていたりします。一方で、いじめや暴力のシーンでは、光が極端に少なかったり、逆に白く飛ぶくらい強すぎて、現実感がなくなっていたり。こういう視覚的なコントロールのおかげで、台詞が多くないシーンでも、キャラの感情がじわっと伝わってくるんですよね。
アニメで言うと、映像のトーンと物語のトーンをずらす演出って、『魔法少女まどか☆マギカ』や『Angel Beats!』などでもよく使われています。優しい絵柄や綺麗な背景の上で、えぐい話を展開することで、逆にショックを増幅させるやつですね。リリィ・シュシュのすべても、その実写版に近いバランス感覚を持っていると感じます。
また、音楽との相性も抜群です。リリィ・シュシュの楽曲が流れるシーンでは、カメラワークやカット割りが音とシンクロするように組まれていて、「MVを観ているような感覚」になる瞬間があります。物語の中でつらいことが続いていても、ふとした瞬間に映像と音楽が完璧に噛み合って、言葉にしづらいカタルシスを与えてくれる。その積み重ねがあるからこそ、最後まで観ることができるのかもしれません。
エーテル
次に、作品を語るうえで絶対に外せないキーワード「エーテル」について。作中では、リリィ・シュシュの音楽から感じる特別な感覚を、ファンたちがエーテルと呼んでいます。単純な「癒やし」とか「感動」とかではなく、もっと中毒性の高い、快楽と救済が混ざったような不思議な感覚です。
エーテルは、現実のつらさを一瞬忘れさせてくれるものとして描かれます。雄一にとって、リリィの曲を聴く時間は、「自分がここにいてもいい」と思える数少ない瞬間です。学校でどれだけ嫌なことがあっても、イヤホンを耳にねじ込んで音の中に沈み込んでしまえば、その間だけは現実が遠ざかっていく。そんな経験、あなたにも一度くらいはありませんか?
救いであり、麻薬でもある
ただ、このエーテルは同時にかなり危ないものでもあります。作中には、リリィのニューアルバムに絶望して自殺を図るファンのエピソードも出てきますし、掲示板の書き込みの中には、明らかに現実から乖離し過ぎているものもあります。「エーテル、エーテル、エーテル」といった言葉が繰り返される場面は、もはや宗教的な呟きに近い雰囲気さえあります。
私の感覚では、エーテルは「現実から逃げるための麻酔」と「生き延びるための栄養」の中間にあるものだと思っています。適度なエーテルは、確かに人を救ってくれます。音楽やアニメ、ゲーム、本などに助けられてきた人は、きっとこの感覚に共感できるはずです。けれど、それだけにすべてを預けてしまうと、現実とのバランスが崩れてしまう。
アニオタ的に言うと、「この作品がなかったら今の自分はいない」というレベルの推し作品って誰にでもあると思います。ただ、その作品だけに生きがいを全振りしてしまうと、ちょっとした炎上や続編の出来で、心がボロボロになってしまうこともありますよね。エーテルは、そういう「推しへの依存」の極端な形として描かれているようにも見えます。
リリィ・シュシュのすべては、エーテルを絶対的な悪として否定しているわけではありません。むしろ、エーテルがなかったら、雄一はもっと早い段階で壊れていたかもしれません。でも同時に、「救いだけに頼り切ると、別の形で破綻するかもしれないよ」という警告も込められている。その二重性が、このキーワードを単なる中二ワードで終わらせない深さになっていると感じます。
匿名性
三つ目のポイントが、匿名掲示板「リリイ・ホリック」の存在です。ここは、雄一にとってのセーフゾーン、心の避難場所として描かれています。現実では弱くて何もできない自分でも、ここではリリィ愛を語れるし、同じように音楽に救われている誰かとつながることができる。今で言うと、特定のジャンルのTwitterアカウントやDiscordサーバーに近い居場所かもしれません。
掲示板でのやり取りは、基本的にはあたたかいです。リリィの新曲について語り合ったり、歌詞の解釈を共有したり、エーテルについて語ったり。そこで交わされる言葉は、現実の教室よりもはるかに優しく、雄一はそこでようやく「自分の言葉を持てている」感覚を得ています。
優しい言葉の裏にある、顔の見えなさ
しかし、匿名性があるからこそ、その優しさはどこまでも不安定でもあります。誰が誰なのか分からないまま、アイコンとハンドルネームだけでやり取りを重ねていく。そこには、「本当はどんな人なのか」が常に霧の中にある状態が続きます。
星を呼ぶ声というユーザーも、その一人です。フィリア=雄一と親密なやり取りを重ね、エーテルやリリィの音楽について深く語り合ってきた相手。画面越しには、とても理解のある、優しいファン仲間に見えます。だからこそ、ライブ会場で「もしかして星野だったのでは?」という示唆が出たときの衝撃がとんでもないんですよね。
匿名性の怖さは、「優しい言葉の主が実は敵かもしれない」というところにあります。これは、現代のSNS文化にもそのまま当てはまる話です。タイムライン上では共感してくれる人が、現実では誰かを傷つけているかもしれない。逆に、自分自身も、ネット上でだけ「いい人」を演じてしまうことがあるかもしれない。この揺らぎを、リリィ・シュシュのすべてはかなり早い段階で描いていた作品だと感じます。
もちろん、だからといって「匿名のコミュニティが全部悪だ」と言いたいわけではありません。むしろ、匿名だからこそ救われる人もたくさんいます。大事なのは、「ネットの優しさも現実の残酷さも、どちらも同じ世界の一部なんだ」という感覚を持っておくことかなと思います。
個人的感想
最後に、tatamiとしての個人的な感想と、この映画との距離感について少しだけ。結論から言うと、リリィ・シュシュのすべては「めちゃくちゃ好きだけど、気軽にはおすすめしづらい映画」です。感情をぐちゃぐちゃにされるタイプの作品が好きな人にはぶっ刺さると思いますが、メンタルが弱っているときにうっかり観ると普通にダメージが残るタイプの作品でもあります。
特に、いじめ・性暴力・自殺というテーマがガッツリ出てくるので、そこにトラウマがある人には本当に注意してほしいです。その一方で、「思春期のどうしようもなさ」や「救いを求める気持ち」をここまで丁寧かつ残酷に描き切った作品は、そう多くありません。だからこそ、一度ハマると忘れられない一本になるんですよね。
アニオタ的な付き合い方
アニオタとしての私の感覚では、リリィ・シュシュのすべては「常に手の届くところに置いておく作品」ではなく、「何年かに一度だけ、覚悟して向き合う作品」です。日常的に何度も見返すのは、精神衛生上あまりおすすめできません。でも、ある程度時間がたって自分の気持ちに余裕が出てきたときに見返すと、その時々の自分の状態を反射する鏡みたいに、違う部分が刺さってくるんですよ。
重たい作品を観たあと、中和するために別の作品を挟みたくなることってありませんか? 私の場合は、心がズドンと沈んだときに、『宇宙よりも遠い場所』や『ゆるキャン△』のような、やさしい空気の作品でバランスを取ることが多いです。前にも少し触れましたが、人生観が変わるアニメ『宇宙よりも遠い場所』を解説&考察では、また別の形の「救い」をテーマに語っているので、心のクッションとして使ってもらってもいいかなと思います。
同じように、ファンタジー寄りの作品で心を軽くしたいときは、『影の実力者になりたくて』のような「妄想と現実のズレ」を笑いに変えてくれる作品も相性がいいです。詳しくは『影の実力者になりたくて』ネタバレ徹底解説|七陰や結末まででがっつり書いているので、興味があればそちらもどうぞ。
最後に、もう一つだけ。作品の解釈や感じ方は、人によって本当にバラバラです。この記事で書いたことも、あくまで私個人の受け取り方の一例にすぎません。配信情報や公式な設定、クリエイターの意図など、正確な事実については必ず公式サイトや公式資料を確認してください。そのうえで、自分がどう感じるか、どんな言葉でこの作品を語りたいかは、あなた自身で自由に決めてほしいなと思います。
作品の受け止め方に正解はないですが、「自分はこう感じた」という気持ちを大事にしつつ、必要なときには専門家や信頼できる人の意見も参考にしながら、自分の心の安全もちゃんと守っていきましょう。フィクションは人生を豊かにしてくれる一方で、時には心を強く揺らすこともあります。その揺れをどう扱うかは、あなた自身のペースで決めていけば大丈夫です。
ちなみに、もっと柔らかい余韻の作品でほっとしたいときには、『ちょびっツ』結末ネタバレと感想のような記事もおすすめです。同じ「恋と孤独」を扱っていても、リリィ・シュシュとはまた全然違う温度感なので、心のクールダウンにも使いやすいかなと思います。
アニメ・映画が大好きで毎日色んな作品を見ています。その中で自分が良い!と思った作品を多くの人に見てもらいたいです。そのために、その作品のどこが面白いのか、レビューや考察などの記事を書いています。
詳しくはこちら



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