皆さんは『近畿地方のある場所について』という作品を知っていますか?
背筋さんの原作小説をもとに、菅野美穂さんと赤楚衛二さんを迎え、白石晃士監督が実写映画化したホラー作品です。
タイトルだけで不穏なのに、映画を観た人の感想を追うと、怖かったという声と同時に、ひどい、怖くない、原作と違う、ラストが分かりにくいといった反応もかなり目立ちます。
僕もこういう賛否が割れるホラーを見ると、単純に面白いかつまらないかで切るより、どこで恐怖の設計が噛み合わなくなったのかを見たくなるんすよ。
この記事では、映画の評価、原作との違い、怪異の見せ方、ラストの賛否、まさるさまの役割まで、重要なネタバレを避けながら映像表現の側から掘っていきます。
- 映画がひどいと言われる主な理由
- 怖い派と怖くない派が分かれるポイント
- 原作と映画で変わった恐怖の作り方
- ラストや怪異をどう受け取ればいいか
『近畿地方のある場所について』はひどい?
まず押さえておきたいのは、この映画が単純に失敗作だから酷評されたわけではないことです。
むしろ前半の映像資料パートや、不自然なノイズ、古い映像の質感、画面外に何かいそうな空気づくりはかなり手が込んでいます。
一方で、原作が得意としていた「読者が自分で断片をつなぐ怖さ」を映画の物語として成立させるため、説明や人物ドラマ、怪異の視覚化を増やした結果、そこで好みが大きく割れました。
映画の評価
僕がこの映画で最初に評価したいのは、恐怖を派手な驚かせ方だけに頼っていない前半の設計です。
古いテレビ映像、記録映像、ネット動画のような異なる素材が次々に差し込まれ、それぞれの画角やノイズ感も均一ではありません。
ここがかなり重要で、全部を同じ映画用カメラの質感で撮ると、一気に作り物っぽくなります。
本作は媒体ごとの時代感を変え、映像の解像感やフレーミングに差を出すことで、画面の中に「誰かが残した資料っぽさ」を作っています。
映画全体も、フェイクドキュメンタリーと劇映画が交互に走り、POV的な主観映像まで混ぜることで、観客が今どの種類の映像を見ているのかを少しずつ揺らしてきます。
なので、前半だけ切り取れば、僕はかなり好きです。
カメラが決定的なものを見せず、視線だけを誘導してくる時間が長い。
この「見たいけど見たくない」という観客の心理を使うのは、Jホラーのかなり美味しいところなんすよ。
ただし後半になると、物語を終着点へ運ぶために因果関係が前へ出てきます。
その瞬間、資料を覗き見している感覚から、登場人物のドラマを追う感覚へ重心が移る。
評価が割れた最大の理由は、前半と後半で恐怖のルールが少し変わることだと僕は見ています。
ネット上でも、序盤は怖かったのに終盤で置いていかれた、逆にラストまで含めて突き抜けていて好き、という両方の反応があります。
つまり、出来が一定ではないというより、観客が期待したホラーの種類と後半の演出が噛み合うかどうかで印象が変わる作品です。
ちなみに、こういう賛否作で僕がかなり気にするのが、劇場で観たときの「観客の笑い」です。
本気で怖がらせようとしている場面で笑いが起きると、その瞬間だけ映画と観客の距離が離れます。
本作も終盤の一部では、恐怖として受け取る人と、思わず笑ってしまう人が分かれやすい演出があります。
これは演技が下手とか映像が雑という単純な話ではなく、怖さの誇張がある一線を越えると、観客の防御反応として笑いに変換されるからです。
僕はそこまで含めて白石監督っぽいとも感じるんですが、原作の乾いた不気味さを期待した人にはかなりノイズになると思います。
怖くない?
怖くないと感じる人がいるのも、かなり分かります。
というのも、本作の怖さはずっと同じ温度ではありません。
前半は情報が少ないから怖い。
画面の端、聞き取りづらい音、意味の分からない記録、妙に長い間。
人間って、分からないものに勝手に輪郭を与えるので、見せられていない部分を自分の頭で補ってしまいます。
ところが後半に入ると、怪異に関する情報量が増え、観客が想像だけで怖がる余白が狭くなります。
ホラー映画ではよくある現象ですが、怪物は「いるかもしれない」段階が一番怖く、画面中央に姿を出した瞬間から特殊造形やCGとして観察できる対象に変わりやすいんです。
本作でも、怪異をはっきり視覚化した部分に対して、怖さよりも異形のデザインが先に目に入ったという反応があります。
僕もここは少し惜しいと思いました。
せっかく前半で、ピントの外やフレームの奥に恐怖を逃がしていたのに、後半では「これが怖いものです」と視線を一点に集めるカットが増える。
映画館の大画面では迫力が出る反面、曖昧さは削られます。
怖さを求めるなら、ジャンプスケアの回数より、何が起きているか分からない前半の不穏さに注目したほうが本作の持ち味を味わいやすいです。
逆に、明確な恐怖演出や分かりやすい怪物を期待すると、途中から別ジャンルっぽく感じるかもしれません。
あと、怖さって音量だけで作るものじゃないんですよね。
本作の前半では、環境音が薄くなったり、会話のあとに妙な無音が残ったりして、観客が次の音を待つ状態を作っています。
この「待たされる時間」が不安を増幅させる。
逆に後半は情報も音も動きも増えるので、怖がるより状況を理解することに脳の処理が使われやすいです。
恐怖の密度が下がるというより、恐怖を感じるための余白が減る感じ。
僕はここが、怖くないという感想のかなり大きな理由だと思っています。
原作との違い
原作との違いを語るとき、設定変更だけ並べてもあまり本質には届きません。
一番大きいのは、恐怖を受け取る人の立場そのものが変わったことです。
原作は、複数の文章や記録を読みながら、読者自身が断片の共通点を拾っていくタイプの作品です。
要するに、読者が編集者でもあり探偵でもある。
文章と文章の間にある空白まで怖さの一部になっています。
一方、映画では約2時間の中で観客を前へ進ませる必要があります。
そのため、登場人物が資料を調べ、映像を見て、現地へ近づいていくという一本の推進力が必要になる。
ここで映画は、原作の「断片の集合」を「人物が謎を追う物語」へ変換しています。
これは映像化としてかなり自然な判断です。
ただ、原作ファンからすると、読み手に委ねられていた恐怖が登場人物の行動に置き換わるので、どうしても説明されている感覚が増えます。
しかも文庫版は単行本と内容が異なり、コミカライズも存在します。
つまり『近畿地方のある場所について』は、最初から一つの固定された完成形だけを持つ作品ではなく、媒体ごとに語り方が変化しているんです。
ここを知らずに「原作と違うからダメ」とだけ切ってしまうと、映画版が何を変換しようとしたのかは見えにくいです。
とはいえ、原作の湿った読後感が好きだった人ほど、映画の派手さに拒否反応が出るのもめちゃくちゃ分かります。
特に原作では、「何が重要情報なのか分からないまま読み進める」時間が長く、その不安定さ自体が恐怖になっています。
映画は上映時間が決まっているので、どこかで重要な情報へカメラを寄せたり、台詞で観客を誘導したりしないと物語が進みません。
つまり映画化した時点で、原作の長所を一部失うのはほぼ避けられない。
その代わり、映像には人物の表情、音、編集テンポ、画面の奥行きがあります。
本作はそこへかなり大胆に賭けた作品で、原作ファンのための再現映像ではなく、映画単体で成立させようとした姿勢は見えます。
ラストが賛否
ラストについては、細かい出来事を伏せても語れます。
ポイントは、映画が最後に余韻よりも印象を選んだことです。
原作系のホラーが得意なのは、読み終えたあとも「結局あれは何だったのか」が頭に残り続ける終わり方です。
ところが映画版は、観客の記憶に強い絵を刻む方向へ踏み込みます。
これをサービス精神と取る人もいれば、説明しすぎ、やりすぎ、蛇足と感じる人もいる。
ネット上でラストの評価が割れているのは、まさにここです。
僕自身は、映像作品として強烈な一枚を残したい意図は分かります。
映画館を出たあと友人と「あれ何だった?」と話せるし、SNSで考察も回りやすい。
ただし、ホラーって余韻の量を増やせば増やすほど怖くなる場合もあります。
扉を完全に開けて中身を見せるより、数センチだけ開いた状態で終わるほうが脳内では怖い。
本作のラストは、その扉をかなり開ける側です。
だから、原作の曖昧さに惚れた人ほど拒否感が出やすい。
逆に、映画として強い締めを求める人にはハマる。
ここは好みが割れて当然っすね。
僕は映画のラストって、作品の評価を一段上げることもあれば、それまで積み上げた温度を一気に変えてしまう危険な場所だと思っています。
本作は安全に着地するより、「最後にもう一発残す」ほうを選んだ印象です。
そのため、途中までの不穏さが好きだった人には過剰に見え、逆に映画として強い記憶を持ち帰りたい人にはサービスになる。
ラストだけを切り取って良い悪いを決めるより、そこまでの演出がどんな怖さを積み上げていたかとセットで見ると、賛否の理由がかなり分かりやすくなります。
怪異の正体
怪異の正体について検索している人に、全部を答えとして渡すのはこの作品では野暮だと思っています。
というのも、本作の怖さは「一つの怪異のプロフィールを完成させること」ではなく、年代も場所も違う複数の記録が、なぜか同じ方向を向いている感覚にあります。
怪異を一体のモンスターとして理解すると、ゲームのボス攻略みたいにルールが見えてしまう。
でも本作は、伝承、記録、噂、願い、土地の記憶のようなものが重なって、ひとつの大きな輪郭を作っていくタイプです。
なので、怪異の正体を考えるときは、見た目よりも「人間側が何を望んだか」「なぜ情報が残されたか」「誰がそれを次の人へ渡したか」を追うと面白いです。
僕はこの作品を、怪物の話というより情報そのものが感染していく話として見るのが好きです。
怖い映像を見た、記事を読んだ、噂を誰かに話した。
その時点で自分も伝播の一部になる。
これ、今のSNS時代と相性が良すぎるんすよ。
僕らもバズった怖い動画を見たら、怖いと言いながら友達に送りますからね。
嫌なのに広げる。
その矛盾が、本作の怪異に妙な現実味を与えています。
Z世代って、怖いものや炎上しているものほど「見ないほうがいい」と分かっていても開いちゃう文化の中で育っているじゃないですか。
就活の口コミサイトも、人間関係の暴露投稿も同じで、不安を減らしたいから情報を集めるのに、情報を集めるほど不安になることがあります。
この作品の怪異も、それにかなり近い。
知れば安全になるどころか、知ること自体が接触になる。
だからこそ、単なる昔ながらの呪いよりも、現代の情報環境に近い恐怖として刺さるんですよ。
まさるさま
まさるさまは、本作の中でもかなり印象に残る伝承的なモチーフです。
ここも細かい由来や因果を全部説明するより、映画の中でどう機能しているかを見るほうが面白いです。
まず、民話や昔話っぽい語りは、それだけで観客の警戒心を少し下げます。
ニュース映像や心霊動画より距離があるので、「これは昔の話」と一度安全圏に置ける。
ところが、その昔話の言葉やイメージが、現代の記録とゆっくり重なってくる。
この時間差が効くんです。
映像的にも、実写の記録映像とは違う質感を挟むことで、編集のリズムが一度リセットされます。
そのあと現代の映像へ戻ったとき、さっきまでただの異常現象だったものに、古い由来があるように見えてくる。
僕はこの「後から意味が染み込んでくる感じ」がかなり好きでした。
ただ、まさるさまを単独の設定として細かく説明しすぎると、逆に怖くなくなります。
昔話って、説明が足りないから怖いんすよ。
なぜその風習があるのか誰も完全には知らない。
でも昔からやっている。
その理由のなさこそが、不気味さの芯です。
民俗ホラーが面白いのは、設定資料を全部読ませることではなく、共同体の人たちが当たり前の顔で変なルールを守っている瞬間です。
「なぜ?」と聞いても、昔からそうだからで終わる。
この説明の断絶が、現代人にはめちゃくちゃ怖い。
僕らは検索すれば大抵のことに理由が見つかると思っているので、検索しても完全な答えに届かないものに出会うと急に足場がなくなります。
まさるさまは、そういう「調べても最後の一枚が埋まらない恐怖」を象徴するモチーフとして見るとかなり効いてきます。
『近畿地方のある場所について』がひどい理由
ここからは、ひどいと言われた要因をもう少し映画の作りに踏み込んで見ていきます。
僕は本作の欠点を、単に怖くないとか意味不明で片づけるより、前半で成立した恐怖の文法を後半で自ら壊している部分にあると感じました。
その壊し方を面白いと感じれば高評価になり、違和感が勝てば酷評になる。
かなり観客を選ぶ作りです。
映画を考察
映画全体を構造で見ると、前半は「資料を見る映画」、後半は「人物が動く映画」になっています。
前半では、観客と登場人物がほぼ同じ位置にいます。
机の上の資料を見て、映像を再生し、共通点らしきものを拾う。
このとき観客は受け身ではなく、自分でフレームの中を探しています。
画面の端に何か映っていないか、音の意味は何か、同じ言葉が出ていないか。
要するに、映画なのに読書に近い鑑賞姿勢を要求してくる。
ここが本作の一番変態的で面白いところです。
しかし後半では、人物の目的がはっきりし、カメラも彼らの移動や感情を追うようになります。
すると観客は「探す人」から「見届ける人」に変わる。
このポジション変更がスムーズに刺さる人には、ちゃんと一本の映画として見える。
でも、前半の参加型ミステリーが好きだった人には、急に普通の劇映画になったように感じる。
さらに、白石監督らしいエンタメ寄りのテンションが入る場面では、恐怖と笑いの境界まで揺れます。
僕は白石作品の、怖いのにどこか可笑しい瞬間は好きなんですが、原作の無機質な恐怖を期待していると温度差が大きい。
本作を原作の完全再現として見ると不満が出やすく、白石晃士監督による別のホラー映画として見ると評価ポイントが増えます。
映像化って、同じ物語を別媒体へコピーする作業ではなく、別の文法へ翻訳する作業なんすよ。
本作はその翻訳がかなり大胆だった。
だから成功と失敗が同じ場所にあります。
僕が特に面白いと思うのは、映画内のカメラが「客観的な記録装置」と「演出された劇映画の視線」を行き来するところです。
記録映像ではカメラマンの存在を意識させるのに、劇映画パートでは普通の映画のようにカメラが透明になります。
この切り替えがあるから、観客は一度現実っぽい映像に慣らされたあと、劇映画パートでも「これも記録の延長かもしれない」と錯覚しやすい。
全部が成功しているわけではないけど、媒体の境界をぐちゃっと混ぜる狙いはかなり明確です。
ネタバレ解説
重要な出来事を具体的に並べるのは避けますが、映画の仕組みだけ理解するとかなり見やすくなります。
大きく分けると、本作には「過去に残された記録」「現在の調査」「観客自身の考察」という三つの層があります。
最初の層では、バラバラに見える事件や怪現象が提示されます。
次の層では、登場人物がそれらの関係を追い、観客の視線をある方向へ導きます。
最後の層では、映画がすべてを説明し切らず、見終えた観客が足りない部分を補う。
この三層目まで含めて作品なんです。
だから、一回観て全部分からなかったから失敗、とは僕は思いません。
むしろ全部分かったら、この題材はかなり弱くなる。
ただし問題は、分からなさにも種類があることです。
「情報が足りないから想像できる分からなさ」は楽しい。
一方で、「情報は大量にあるのに接続が見えない分からなさ」は疲れます。
本作の終盤では、この二つが混ざる瞬間がある。
レビューで置いていかれたという感想が出るのは、そのためだと思います。
見るときは、すべての怪異を一つずつ解決しようとするより、繰り返されるモチーフや、人が情報を受け渡す流れを見るのがおすすめです。
そのほうが細部の答え合わせより、本作の嫌な余韻が残ります。
考察作品って、答えを全部回収した瞬間に満足して閉じてしまいがちなんですが、この作品はむしろ少し未回収のまま残したほうが楽しいです。
「この場面は何を意味したのか」を一個ずつ潰すより、似た構図や言葉がどこで反復されたかを思い出す。
すると、一見関係なさそうだった資料が同じ方向を向き始めます。
僕は二周目を見るなら、ストーリーより背景の掲示物、画面端の配置、人物が資料を見る順番に注目したいっすね。
原作の評価
原作が高く評価された理由は、怖い出来事そのものより、読者を作品世界へ巻き込む形式にあります。
普通の小説なら、語り手が場面を描写し、登場人物が事件を経験し、その流れを読者が追います。
しかし『近畿地方のある場所について』は、雑誌記事や書き込み、記録のような断片を読む感覚が強く、読者は「これは誰が残したのか」「なぜここだけ妙に具体的なのか」と文章の外側まで気にするようになります。
こういう作品は、怖い場面を直接描くより、資料の信憑性を少しずつ上げるほうが効きます。
実在しそうな地名のぼかし方、媒体ごとに違う文体、情報の欠落。
それらが積み重なると、作り話を読んでいるはずなのに、検索したら何か出てきそうな感覚が生まれる。
僕はこの感覚こそ原作の武器だと思います。
しかも単行本、文庫版、コミカライズと形を変えて展開されているので、「どれが唯一の正解か」ではなく、媒体ごとに違う入口がある作品になっています。
だから映画版だけを見て合わなかった人も、原作までひどいと決めつけるのはもったいないです。
映画で説明的に感じた部分が、文章だと逆に不気味な空白として機能することがあります。
僕も映像作品と原作を行き来すると、同じ設定なのに怖さの発生源が変わる瞬間が好きです。
就活でも人間関係でもそうですが、同じ情報でも渡され方が変わると印象って驚くほど変わるんすよ。
この作品は、その「伝え方で現実が変わる」感覚をホラーにしたようにも見えます。
原作の文章では、読者がページをめくる速度まで自分で決められます。
怖い段落で止まってもいいし、一度戻って読み返してもいい。
映画では編集がその速度を握るので、観客は次のカットへ強制的に連れていかれます。
この違いだけでも、恐怖の質はかなり変わります。
だから原作が好きだった人ほど、映画に同じ体験を求めるより「映像だと何を捨てて何を足したのか」を見ると、かなり面白くなります。
映画の配信
『近畿地方のある場所について』をこれから配信で観たい人は、作品名だけでなく「見放題」「レンタル」「購入」のどれに当たるかまで確認しておくのがおすすめです。
動画配信は同じ作品でも、サービスごとに扱いが変わります。
| 視聴方法 | 特徴 | 確認したい点 |
|---|---|---|
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課金や契約トラブルなど専門的な判断が必要な場合は、最終的な判断は専門家にご相談ください。
個人的には、この映画はスマホの小さい画面より、暗い部屋でテレビかプロジェクターを使ったほうが前半の画面奥の違和感を拾いやすいです。
映像資料の中には、画面中央の派手な異変より、背景の余白やフレームの端を見たくなるカットがあります。
スマホだとその「何かいたかも」という情報量が潰れやすいんですよ。
音もかなり重要なので、可能ならイヤホンやスピーカーで環境音まで聞くと印象が変わります。
『近畿地方のある場所について』はひどい?
結論として、僕は『近畿地方のある場所について』を単純にひどい映画とは思いません。
ただ、原作の怖さをそのまま期待すると、かなり違う映画に見えるのは間違いないです。
前半は資料映像を覗くフェイクドキュメンタリーとして不穏さが積み上がり、後半は人物ドラマと怪異の視覚化が前に出る。
その切り替えが好きかどうかで評価が大きく変わります。
ひどいと言われる理由としては、原作との距離、終盤の説明不足、怪異を見せることで想像の余地が減ったこと、ラストの押しの強さが大きいです。
一方で、古い映像資料の質感、媒体ごとに変わる撮影方法、画面外へ恐怖を置く前半の演出、菅野美穂さんの表情の変化など、映画として見るべきポイントもかなりあります。
特に僕は、同じ人物の顔が照明と芝居だけで急に別の存在に見えてくる瞬間が好きでした。
ホラーってCGで何かを足すより、人間の表情から安心感を少しずつ抜いていくほうが怖いことがあります。
そこは本作のかなり美味しいところです。
なので、検索候補のひどいという言葉だけで避けるより、原作再現ではなく、白石晃士監督が別の映像文法へ翻訳した作品として見るのがおすすめです。
ぶっちゃけ、僕も終盤には「そこまで見せるんかい」と思った部分があります笑。
でも、その違和感まで含めて友達と語りたくなる。
完璧に整った優等生ホラーではないけれど、観たあとに「あそこは好き」「いや、あれはやりすぎ」と会話が続くタイプの映画です。
そして、この作品ではその会話自体がちょっと怖い。
誰かに話した瞬間、自分もまた怪談を次へ渡す側になるからです。
アニメ・映画が大好きで毎日色んな作品を見ています。その中で自分が良い!と思った作品を多くの人に見てもらいたいです。そのために、その作品のどこが面白いのか、レビューや考察などの記事を書いています。
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