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『何者』の映画はひどい?つまらない理由と評価を考察

映画・ドラマ

皆さんは『何者』という映画を知っていますか? 朝井リョウさんの同名小説を原作に、佐藤健さん、有村架純さん、二階堂ふみさん、菅田将暉さん、岡田将生さんらが出演した就活をテーマにした青春群像劇です。

ただ、この作品について調べると、『何者』の映画はひどい、つまらない、気持ち悪い、ラストの意味がわからない、演劇のシーンが意味不明といった、かなり不穏な感想も出てきます。 豪華キャストの青春映画だと思って観たら、想像していた作品と全然違ったという人も多いんすよね。

僕もこの映画は、爽快な就活ドラマとして観るとかなりしんどい作品だと思っています。 というのも、観客を気持ちよく感情移入させるのではなく、人を評価して安心したり、SNSで自分を演出したり、他人の成功にモヤッとしたりする感情を真正面から見せてくるからです。

一方で、映像の作り方まで見ていくと、その居心地の悪さ自体がかなり計算されています。 そこで今回は、なぜ『何者』がひどい、つまらない、気持ち悪いと言われるのかを入り口に、演劇の意味、拓人とSNS、ラスト、原作との違い、キャスト、主題歌まで、核心部分のネタバレを避けながら掘っていきます。

  • 『何者』がつまらないと言われる理由
  • 気持ち悪さを生む人物描写と映像演出
  • 演劇やSNSが物語で果たす役割
  • 原作・キャスト・主題歌を含めた映画の見どころ

『何者』の映画がひどいと言われる理由

映画『何者』は2016年10月15日に公開された、朝井リョウさんの小説を原作とする作品です。 監督と脚本を担当したのは、演劇ユニット「ポツドール」を主宰してきた三浦大輔さんです。

だから、この映画を普通の就活青春ドラマとして観ると、かなり変な手触りがあります。 会話の間、人と人の距離、室内での立ち位置、SNSの扱い、演劇と現実の境界まで、青春映画というより人間観察に近い演出になっているんですよ。

作品の基本情報については、原作出版社である新潮社でも映画化情報が公開されています。 (出典:新潮社「映画『何者』予告編」)

先に僕の見方を言うと、『何者』は単純に出来がひどい映画というより、観客を意図的に居心地悪くさせる映画です。 なので、この不快感を「つまらない」と受け取るか、「自分まで刺される」と受け取るかで評価が真っ二つになります。

つまらない?

『何者』がつまらないと言われる理由で一番わかりやすいのは、派手な出来事がほとんど起きないことです。 題材は就職活動なので、基本的にはエントリー、面接、結果待ち、仲間との会話といった日常の繰り返しになります。

例えば、スポーツ映画なら試合があり、ミステリーなら事件があり、恋愛映画なら恋の進展があります。 でも『何者』で少しずつ動いていくのは事件ではなく、同じ部屋にいる人間同士の見る目なんですよ。

昨日まで普通に話していた相手が内定を取った瞬間、急にその人の言葉が鼻につく。 自信満々に見えた人が失敗し続けると、表情の奥に焦りがにじむ。 そういうミリ単位の変化を延々見せる作品なので、ドラマチックな展開を期待すると「何も起きない」と感じるのも無理はありません。

しかも登場人物たちは、かなり面倒くさいです。 意識が高そうに振る舞う人、就活そのものを冷笑する人、他人を観察して自分だけ一段上にいるつもりの人など、普通の青春映画なら少し薄めるような嫌な部分を、そのまま出してきます。

ただ、僕はここが『何者』の面白いところでもあると思っています。 この映画は「誰を応援すれば気持ちいいか」を用意するのではなく、「自分は誰に一番イラつくのか」を観客に選ばせる構造になっているんすよね。

そして、一番イラついた人物ほど、自分と似ている可能性がある。 これがめちゃくちゃ嫌な映画です。笑

レビューでは、原作は面白かったのに映画は刺さらなかった、脚本が合わなかったという声もあります。 一方で、若い頃の自意識や嫉妬をここまで容赦なく描いた点を評価する人もいて、この時点で「万人向けではないけど、刺さる人には深く刺さる」という作品の性格が見えてきます。

気持ち悪い?

『何者』を観たあとに残る感情を一言で言うなら、僕は「気まずさ」がかなり近いと思います。 ホラー映画ではないのに、下手なホラーより怖い瞬間があるんですよ。

なぜなら、怪物が出てくるのではなく、普段なら隠している人間の感情が少しずつ見えてしまうからです。 友達の成功を素直に祝えない、SNSで他人の人生を採点する、自分を良く見せるために言葉を選ぶといった行動は、多かれ少なかれ身に覚えがある人もいると思います。

映画はそこを大げさな悪役描写にしません。 むしろ普通の会話の中に小さな棘として混ぜています。

三浦大輔監督の演出で面白いのが、人物をすぐにアップで切り取らない場面があることです。 同じ空間に複数人を置き、誰かが話している間に別の人物がどう反応しているかまで画面に残す。

すると観客は台詞だけでなく、「今この人、ちょっと顔変わったな」と勝手に人間観察を始めます。 そして気付けば、作中で他人を分析している人物と同じことを、自分までスクリーンに対してやっている。

ここが嫌なんすよ。 『何者』は登場人物の性格の悪さを見る映画であると同時に、他人の性格を採点している観客自身まで作品の中に巻き込む映画になっています。

Z世代としては、SNSの描写もかなり身近です。 僕も何かを投稿するとき、「本当に言いたいこと」より先に「これを投稿したらどう見えるか」を考えて文章を直す瞬間があります。

それって結局、画面の向こう側にいる架空の観客へ向けて自分を演出しているわけです。 だから『何者』の気持ち悪さは、登場人物が特殊だから生まれるのではなく、むしろ普通すぎるから生まれているんだと思います。

演劇の意味

『何者』を観ていて「途中の演劇は何だったの?」と感じる人はかなり多いと思います。 物語のテンポだけを考えるなら、就活の話に突然別の舞台が挟まるので、邪魔に見えるのも分かります。

でも、ここは映画版を読むうえでかなり重要です。 三浦大輔監督自身が演劇畑の人ということもあり、本作では演劇そのものが承認欲求の比喩として使われています。

舞台に立てば、照明が当たり、誰かが自分を見る。 終演後には拍手があり、感想があり、その瞬間だけは自分が特別な何者かになったような感覚を得られます。

これ、SNSとめちゃくちゃ似ているんですよね。 写真を投稿する、文章を書く、反応が付く、自分という存在が誰かに認識される。

だから映画の中では、アナログな舞台とデジタルなSNSが別々のものではありません。 どちらも「他人の視線の中で自分を作る場所」として重ねられています。

さらに面白いのが、映画そのものの画面まで舞台っぽくなる瞬間です。 人物が部屋の中で横方向に配置され、誰かの会話を別の人物が聞いている構図は、単なるショットの連続というより、客席からステージを眺めている感覚に近い。

そのため終盤へ向かうにつれて、現実の就活、SNS、過去の演劇という別々だった場所の境界が少しずつ曖昧になります。 ここを「意味不明な演劇シーン」と切ってしまうとノイズですが、全員が人生という舞台で何者かを演じていると考えると、一気につながるんすよ。

演劇パートはストーリー上の出来事だけを見るより、「誰が見ているのか」「誰に見られたいのか」という視線の構造に注目すると分かりやすいです。 就活の面接もSNSも演劇も、全部「他人の前で自分を説明する場所」としてつながっています。

拓人の裏アカ

この見出し自体が多少のネタバレを含みますが、核心の内容や具体的な投稿については触れません。 重要なのは裏アカウントに何が書かれていたかより、なぜ拓人に表と裏が必要だったのかです。

拓人は人を観察することが得意で、周囲の人物の言動をかなり冷静に見ています。 一見すると、感情に振り回される周囲より大人に見えるんですよね。

でも、人間って他人を分析している間は自分を見なくて済みます。 「あの人は意識高い系」「この人は何も考えていない」と分類してしまえば、自分だけは評価する側に立てる。

ここで裏アカという装置が効いてきます。 表では言えない感情を、別の場所では言語化できる。

つまり拓人は黙っているのではなく、発言する場所を分けているだけなんです。 リアルの自分、就活用の自分、友達の前の自分、SNS上の自分という複数の人格を使い分けています。

僕はここが今見るとむしろ2016年公開時より生々しいと思います。 今はX、Instagram、TikTok、匿名アカウントなど、場所ごとにキャラクターを変える行為がさらに普通になりました。

表アカではポジティブな自分、裏では愚痴、仕事用では真面目な自分。 それ自体が悪いわけではありません。

ただ、『何者』が突いてくるのは、他人の演技にはすぐ気付くのに、自分自身も演じていることにはなかなか気付けないという矛盾です。 ここまで来ると、裏アカは単なるどんでん返し用の小道具ではなく、作品タイトルそのものにつながる仕掛けだと感じます。

ラストの意味

『何者』のラストについては、「あれで終わり?」「結局どういう意味?」と感じた人もいると思います。 確かに、大きな事件が解決して全員が成長しました、みたいな分かりやすい終わり方ではありません。

ただ、僕はこの映画のゴールを「内定を取れるかどうか」だと思って観るとズレると思っています。 本当のゴールは、自分自身を安全な観客席から降ろせるかなんですよ。

拓人は人の行動を見ること、意味を付けること、欠点を発見することには慣れています。 でも、自分自身が評価される側へ立つことには怖さがある。

これは就活だけの話ではないです。 作品を作らずに作品を批評する、人に告白せず恋愛相談だけする、挑戦している人を外から笑う。

失敗しないためには、参加しないのが一番安全です。 でも、それだと永遠に自分の人生の観客でしかない。

だからラストで大切なのは、結果そのものよりも「自分も土俵へ上がる」という変化です。 上手に話せなくても、格好悪くても、とりあえず自分の言葉で参加する。

僕はここが『何者』というタイトルへの一つの回答だと思っています。 何者かになってから行動するのではなく、何者でもない状態のまま動き始めるしかないんすよ。

派手なカタルシスがないから物足りなく感じる人もいます。 でも、その未完成さこそ22歳という年齢には妙に似合っています。

『何者』の映画はひどいだけではない

ここまで見ると、『何者』がひどい、つまらないと言われる理由にはちゃんと理由があります。 登場人物に感情移入しにくく、爽快感も少なく、演劇パートも説明不足に感じやすい作品です。

ただし、その欠点に見える部分の多くが、映画のテーマともつながっています。 ここからは少し視点を変えて、ネタバレの扱い、原作との違い、俳優陣の演技、音楽まで見ていきます。

ネタバレ解説

ここでは終盤の構造に触れますが、具体的な台詞や決定的な出来事は伏せています。 初見の驚きを残したい人でも読める範囲にとどめています。

『何者』は、途中まで「少し面倒くさい就活生たちを観察する群像劇」として進みます。 ところが終盤になると、それまで観客が頼りにしていた視点そのものが揺らぎ始めます。

ここがこの映画の一番いやらしいところです。 僕らは無意識に、物語の中心にいる人物を信用します。

主人公が「あいつはこういう人間だ」と感じれば、観客もその人物を同じ角度から見てしまう。 映画はカメラの位置を選べるので、誰を見せて誰を見せないかによって、観客の印象をかなり誘導できるんですよ。

『何者』はその性質を利用しています。 ある人物について抱いていた印象が変わるだけではなく、これまで自分が見ていた映画そのものを見直したくなる作りです。

なので、「衝撃のどんでん返し」を期待すると肩透かしになる可能性があります。 殺人事件の犯人が判明するタイプの驚きではないからです。

むしろ「あれ、自分ってこの人物と一緒になって他人を笑ってなかった?」と観客側へ刃が戻ってくる。 そこが本作のえげつなさです。

レビューでラストが大したことないと感じる人がいるのも分かります。 事件として見れば小さい。

でも、自意識の映画として見るとかなりデカい。 世界がひっくり返るのではなく、自分が立っていた場所だけがひっくり返るタイプのオチなんですよ。

原作との違い

映画『何者』は原作小説の大枠をかなり受け継いでいますが、文章をそのまま映像に置き換えた作品ではありません。 僕が一番大きな違いだと思うのは、人物の内面を「説明する」代わりに「空間へ出している」ことです。

小説なら主人公が何を考えたのかを文章で書けます。 読者も好きな速度で止まりながら読めます。

しかし映画では、ずっと心の声をナレーションで説明したら映像にする意味が薄くなります。 そこで三浦大輔監督は、SNS画面、俳優の目線、沈黙、部屋の距離、演劇という別の手段へ置き換えています。

特に演劇を実際の映像として見せられることは、映画版ならではです。 文章の中では想像するしかない舞台空間を実物として提示し、さらに現実側の画面と重ねていく。

これにより、「人生を演じる」というテーマが視覚的になります。 僕はここをかなり面白い改変だと思っています。

一方で、あえて苦言を呈するなら、原作でじっくり読めた人物の心理が映画では薄く感じる部分もあります。 特に複数の登場人物を限られた上映時間で動かすため、「この人がなぜここまで焦っているのか」をもう少し見たかった場面はあります。

原作ファンから映画が別作品のように感じたという反応が出るのも、このあたりが理由だと思います。 出来事だけを比べれば近くても、文章で内側から人物を見る小説と、画面の外側から人物を見る映画では体験そのものが違うんですよ。

なので僕は、原作と映画のどちらが上かで比べるより、小説で頭の中にあったものを映画が何へ置き換えたのかを見る方が楽しいです。 実写化の面白さって、本来そこにあると思うんすよね。

キャスト評価

『何者』は今見ると、とんでもないメンバーが集まっています。 主要人物だけでも佐藤健さん、有村架純さん、二階堂ふみさん、菅田将暉さん、岡田将生さん、山田孝之さんです。

役名キャスト人物の立ち位置
二宮拓人佐藤健人を観察する元演劇サークル生
田名部瑞月有村架純実直に就活へ向き合う学生
小早川理香二階堂ふみ就活への意識が高い学生
神谷光太郎菅田将暉自然体に見えるバンド青年
宮本隆良岡田将生就活を批判的に見る学生
サワ先輩山田孝之拓人たちを見守る先輩

その中でも映画の核になっているのは、やっぱり佐藤健さんだと思います。 拓人って、普通に演じるとめちゃくちゃ地味な主人公なんですよ。

感情を爆発させるタイプでもないし、誰より明るいわけでもない。 だからこそ佐藤健さんは、声よりも目線や姿勢で人物を作っています。

相手を見ているようで、少し引いている。 会話に参加しているようで、どこか記録している。

この数センチの距離感が拓人という人物そのものです。 ネット上でも無機質に感じるという反応がありますが、僕はむしろその無機質さが狙いに合っていると思っています。

二階堂ふみさんもかなり印象的です。 理香は演じ方を間違えると単純な「意識高い系の嫌な人」になってしまいます。

でも、言葉を重ねるほど逆に不安が透けて見える。 あの必死さがあるから、笑える人物ではなくなっています。

菅田将暉さんはその反対で、考えていないように見える軽さがあります。 ただ、その自然体こそ周囲の人物を刺激する。

岡田将生さんが演じる隆良も、言っていることだけ聞けば正論っぽい瞬間があるのに、身体や表情を見ると焦りが漏れている。 そして山田孝之さんが少し違う世代の視点として入ることで、22歳の閉じた世界に外側が生まれています。

豪華キャストだから成立した映画というより、豪華な俳優たちにあえて地味で嫌な感情を演じさせたことが面白い作品だと思います。

主題歌の魅力

主題歌は中田ヤスタカさんによる「NANIMONO(feat.米津玄師)」です。 中田ヤスタカさんが書き下ろした楽曲に、米津玄師さんが作詞とゲストボーカルで参加したコラボレーションになっています。

この組み合わせが本作にはめちゃくちゃ合っています。 映画本編は会話と沈黙が多く、閉じた部屋で人間関係がじわじわ変化していく作品です。

そこにエンディングで電子音を主体としたダンサブルな楽曲が入る。 普通なら温度差が出そうなのに、むしろSNS時代の若者というテーマと接続します。

僕が面白いと思うのは、映画が基本的にものすごくアナログな人間関係を描いている点です。 同じ部屋に座り、相手の顔を見て、言えないことを飲み込む。

一方で、その裏側ではSNSというデジタル空間がずっと動いています。 中田ヤスタカさんの電子的な音像は、その見えないネット空間が最後に一気に表面へ出てくる感覚に近いんですよ。

そこへ米津玄師さんの声が乗ることで、単なるキラキラしたクラブサウンドではなく、少し孤独な質感も残る。 大人数の中にいるのに一人でスマホを見ているような映画の感覚と相性が良いんです。

だから主題歌だけ切り離して聴くのも良いですが、映画を観た直後に流れる瞬間まで含めて完成する曲だと思います。 エンドロールで初めてタイトルの「何者」という言葉がもう一度自分に返ってくるような感覚があります。

伝えたいこと

『何者』が伝えたいことを「SNSは怖い」「就活は大変」という一文で終わらせると、かなりもったいないです。 僕はこの作品の中心にあるのは、何かをしている人と、それを評価している人の違いだと思っています。

他人の欠点って、本当に簡単に見つかるんですよ。 夢を語れば痛い。

SNSで努力を発信すれば意識高い。 何も発信しなければ行動していない。

内定を取れば要領がいいだけ。 失敗すれば努力不足。

評価する側にいる限り、いくらでも言えます。 でも、自分が同じ舞台へ立った瞬間、その言葉は全部自分にも返ってきます。

これって映画やアニメを観る側にも当てはまります。 僕も年間かなりの本数を観ていると、「この脚本はここが甘い」「このカットはいらない」と簡単に言ってしまいます。

でも、自分で一本の映像を作れと言われたら話は別です。 人に見せるものを完成させること自体、めちゃくちゃ怖い。

だから『何者』を観ると、批評することと参加することの距離を考えさせられます。 評論するなという話ではありません。

むしろ批評は必要です。 ただ、他人の未完成さを笑うことで、自分が挑戦しない理由を作っていないかという問いが残ります。

就活も同じです。 自分に完璧な肩書きができてから社会へ出るのではなく、何者なのか分からない状態でとりあえず面接へ行き、自分のことを説明しなければならない。

22歳で「あなたは何者ですか?」と聞かれて完璧に答えられる人なんて、そんなにいないと思うんすよね。 なのに就活では短い言葉で自分を説明しなければならない。

その矛盾をここまで嫌な形で見せてくるから、『何者』は爽やかな就活応援映画にはなりません。 でも、社会に出る直前や仕事で自分の立ち位置に迷った時に観ると、妙に刺さる作品です。

『何者』が突きつけるのは「あなたは特別な何者ですか?」ではなく、「何者でもない自分のまま、人前に出られますか?」という問いだと僕は感じます。

『何者』映画ひどい?

結論として、『何者』の映画がひどいと感じる人がいるのはかなり理解できます。 登場人物は面倒くさいし、爽快感は少ないし、途中の演劇には戸惑うし、ラストも派手な大逆転ではありません。

特に、豪華キャストによる分かりやすい青春映画や就活成功物語を期待して観ると、「思っていたのと違う」となる可能性は高いです。 原作で人物の内面をじっくり読んだ人ほど、映画の心理描写を物足りなく感じる場合もあると思います。

ただ、僕は「ひどい映画」で終わらせるには惜しい作品だと思っています。 なぜなら、観ていて感じる嫌悪感や気まずさのかなりの部分が、テーマと演出につながっているからです。

他人のSNSを見て勝手に人物像を作る。 努力している人を少し冷めた目で見る。

成功した友人を祝いたいのに、心のどこかがザワつく。 自分も何者かになりたいのに、その必死さを人に見られるのは恥ずかしい。

そんな感情を持ったことがある人ほど、この映画は痛いです。 そして痛いからこそ、「気持ち悪い」「嫌い」「もう観たくない」という感想まで含めて作品に反応してしまう。

僕にとって『何者』は、観客を楽しませることだけを目的にした映画ではなく、観客自身の自意識までスクリーンへ引きずり出す映画です。 だから評価が割れるのは、ある意味かなり自然なんすよね。

もし一度観て「つまらなかった」で終わった人も、演劇を承認欲求、SNSをもう一つの舞台、拓人を観客側に立とうとする人物として見直すと、二回目はかなり違って見えると思います。 逆に、そこまで読み取っても人物の不快さやテンポが合わないなら、その感想も全然おかしくありません。

作品情報、上映、販売、配信状況などは時期によって変わる可能性があります。 正確な情報は作品や各サービスの公式サイトをご確認ください。

また、料金や契約条件が関わるサービスを利用する場合は内容を十分に確認し、不明点がある場合の最終的な判断は各サービスの窓口など専門家にご相談ください。

『何者』は、気持ちよく観られる映画ではありません。 でも、SNSで他人と自分を比べることが当たり前になった今だからこそ、2016年公開の作品とは思えないくらい嫌なところを突いてくる一本です。

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