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『ふしぎの海のナディア』はひどい?作画崩壊と島編を検証

アニメ・漫画

皆さんは『ふしぎの海のナディア』という作品を知っていますか?

庵野秀明さんが総監督を務めた1990年代の名作として語られる一方、検索すると『ふしぎの海のナディア』はひどい、作画崩壊がすごい、島編がひどいといった、なかなか穏やかじゃない言葉が並びます。

特に初めて観ている人ほど、無人島編とは何なのか、作画崩壊は何話なのか、ひどい作画になった原因は何なのか、島編はいらないのではないかと気になるはずです。

さらに、ストーリー評価そのものが低い作品なのか、ナディアの性格が本当にきついのか、最終回の評価まで悪いのかも検索されがちなポイントです。

僕も年間数百本単位でアニメや映画を観ていますが、この作品ほど「一部分の欠点」と「作品全体の完成度」を切り分けて考えたほうがいいアニメは珍しいっすね。

作画の乱れだけを見ると確かにかなり攻めた状態になっている回がありますが、カット割り、キャラクターの芝居、音響、画面設計まで観察すると、単純に駄作という一言では処理できません。

この記事では重要なネタバレを避けながら、なぜここまでひどいと言われるようになったのかを、映像オタク目線でじっくり解剖していきます。

  • 作画崩壊と呼ばれる理由
  • 島編や無人島編が酷評される背景
  • ナディアの性格と物語上の意味
  • 作品全体と最終回の評価

『ふしぎの海のナディア』はひどい?

先に大枠だけ言ってしまうと、『ふしぎの海のナディア』が作品全体としてひどいという評価には、僕はかなり違和感があります。

ただし、途中に「これはさすがに気になるな……」となる映像や、物語のテンポが急激に変化する区間があるのも事実です。

厄介なのは、その落差があまりにも大きいため、悪い部分だけ切り取ると本当に別作品のように見えてしまうことなんすよ。

作画崩壊の実態

まず押さえておきたいのが、『ふしぎの海のナディア』は1990年4月13日にNHK総合で初回放送された全39回のテレビアニメだということです。

総監督は庵野秀明さん、キャラクターデザインは貞本義行さんで、原案にはジュール・ヴェルヌの『海底二万里』が置かれています。

(出典:NHKエンタープライズ『ふしぎの海のナディア』公式ページ)

項目内容
初回放送1990年4月13日
話数全39回
総監督庵野秀明
キャラクターデザイン貞本義行
ナディア役鷹森淑乃
ジャン役日髙のり子
音楽鷺巣詩郎

で、問題の作画崩壊ですが、単純に「顔が変だから作画崩壊」という話だけではありません。

僕が映像として気になるのは、キャラクターの頭身、顔の輪郭、目鼻の位置、人体の重心、歩行や走行時のタイミングなど、カットからカットへ移ったときの連続性が崩れる瞬間です。

特にこの作品の通常時は、身体の重量感をかなり丁寧に扱っています。

立っているキャラが振り返るだけでも肩、腰、足の順番に動きがつながっていて、セルアニメならではの人間臭い芝居があるんですよ。

だからこそ、その基準から外れた回になると落差がめちゃくちゃ目立ちます。

『ナディア』の作画崩壊が有名になった最大の理由は、普段の映像水準が低かったからではなく、むしろ良い回との差が激しかったからです。

2020年代のテレビアニメだと作画崩壊という言葉は顔の崩れだけに使われがちですが、『ナディア』の場合は動きそのもの、口の動きと台詞のタイミング、キャラの大きさ、奥行きなどにも違和感が出ます。

静止画で一枚だけ切り抜くより、動画として連続で観たときのほうが問題が分かるタイプです。

ここは映像オタク的にはかなり重要なポイントっすね。

島編がひどい

『ふしぎの海のナディア』について調べると、ほぼ確実に出てくるのが島編です。

この区間が話題になる理由は、単なる作画の問題だけではありません。

それまでの物語が持っていた緊張感や目的意識まで一度大きく変化するためです。

前半から中盤にかけての『ナディア』は、冒険活劇としてかなり推進力があります。

新しい土地へ進み、新しい人物と出会い、謎が少しずつ広がり、危険な場面では画面の密度まで変わる。

潜水艦内では狭い通路を使った奥行きのある構図も多く、キャラクター同士の上下関係まで画面配置で感じさせるんですよ。

ところが島編に入ると、その推進力が意図的なのか制作事情によるものなのか、とにかく大きく減速します。

物語を前へ運ぶというより、キャラクター同士の日常的なやり取りや小さな騒動に尺を使う回が増えるんですね。

ここまで毎週ジェットコースターに乗っていた視聴者からすると、急に遊園地のベンチで休憩させられた感覚になります。

ネット上でも「無駄が多い」「島編が長い」という反応が昔から出やすいですが、これは結構理解できます。

今の僕らって配信で何話も続けて観るじゃないですか。

すると物語の速度差を30分単位ではなく数時間単位で体験するので、中だるみがより露骨に見えるんですよ。

ぶっちゃけ、初見で「急に何を見せられているんだ?」となる瞬間はあります。

ただ、その違和感だけで駄作判定してしまうのはかなりもったいないです。

島編は作品最大の弱点であると同時に、この作品のキャラクター観が最もむき出しになる区間でもあります。

無人島編とは

検索では島編と無人島編がほぼ同じ意味のように使われることがありますが、厳密にはファン側の呼称なので、人によって範囲の捉え方に多少差があります。

一般的には第23話以降に始まる島での生活を中心とした一連のエピソードを指して語られることが多く、その後のアフリカ方面のエピソードまで一続きの中だるみ区間として扱う人もいます。

このパートで面白いのは、大人たちによって構築されていた社会から子どもたちが離されることです。

船の中では命令系統があり、技術者がいて、役割分担があり、子どもは基本的に大人の作った秩序の中にいます。

ところが無人島では、その秩序が薄くなる。

するとナディアやジャンの未熟さが一気に露出するんです。

僕はここ、映像的な完成度とは別に脚本構造として結構おもしろいと思っています。

大人がいる会社ではちゃんとして見える人でも、同期だけで旅行に行った瞬間に性格が全部出る、みたいなことあるじゃないですか。

Z世代の僕からすると、大学のグループワークとか就活の集団面接にも近いものを感じます。

ルールがある場所では優等生だった人が、ルールを失った瞬間にどう振る舞うのか。

ナディアとジャンにもまさにそれが起きます。

そのためキャラクターの欠点が急激に増えたように見えますが、実際には、それまで隠れていたものが表面に出ただけと読むこともできるんですよ。

無人島編は本筋を進める区間というより、キャラクターを安全地帯から引きずり出して人間性を見せる区間として観ると印象が変わります。

ただし、それを十数話規模の流れで見せる必要があったのかと聞かれると、僕もちょっと首をひねります。

面白い実験ではあるけれど、尺の使い方はかなり豪快です。

作画崩壊は何話

では、作画崩壊は何話なのか。

ここは「この1話だけです」と断言するのは正確ではありません。

視聴者の間で作画の乱れが指摘されやすいのは、おおむね第23話以降の島編から第34話前後にかけてです。

その中でも第28話などは作画について話題にされやすく、第34話も通常のテレビアニメとはかなり違う映像構成になっているため、検索すると頻繁に名前が出てきます。

ただ、同じ回の中でもカットによって品質差があります。

だから「23話から34話までは全部ひどい絵」と考えるのも違います。

映像を見ると、きちんと修正されているカットと、時間的に修正が行き届かなかったように感じるカットがかなり露骨に混在しています。

こういう回って、制作現場の層が断面図みたいに見えるんですよ。

キャラクターの顔だけ急にいつもの形へ戻ったり、アクションの一部だけ異常に動いたりする。

均質な一本の映像ではなく、複数のスタッフがぎりぎりでつないだものだと感じられる瞬間があります。

一方、第34話は作画枚数を積み上げる方向とは違い、既存素材の再利用や編集そのものを前面に出した特殊な仕上がりです。

映像作品では、新しい絵が多ければ偉いというわけではありません。

編集とは、既に存在するショットの順番と長さを変えるだけでも意味を作れる技術です。

なので第34話については「絵が少ないからダメ」とだけ評価するより、限られた素材をどう一本の放送枠へ成立させたかを見ると、別方向の面白さもあります。

とはいえ普通のドラマ進行を期待していた視聴者が困惑するのも、まあ当然です笑。

作画の評価には個人差があり、特にリマスター版や視聴環境によって線や色の見え方も変わります。

何話が最悪かというランキングより、通常回との動きの差を見るほうが『ナディア』の場合は面白いです。

ひどい作画の原因

ひどい作画になった原因として語られるのが、制作スケジュールと外注工程の問題です。

この時代のテレビアニメは現在のデジタル制作と違い、原画、動画、仕上げ、セル、撮影という工程を物理的に受け渡していく比重が大きい時代でした。

『ナディア』の公式スタッフ情報を見るとアニメーションには東宝とKORADがクレジットされており、制作の一部が海外工程を含む体制だったことも分かります。

ただし、ここで海外外注そのものを悪者にするのは雑すぎます。

アニメの品質は発注先の国籍で決まるものではなく、スケジュール、資料共有、演出指示、作画監督による修正時間、リテイクできる余裕など複数の工程で決まります。

むしろ『ナディア』から見えるのは、テレビシリーズという長丁場で資源配分が崩れたときの怖さです。

アニメ制作はマラソンみたいなもので、序盤だけ全力疾走しても39回は走り切れません。

重要回に人員や時間を集めれば、当然どこかの回にしわ寄せが出やすくなります。

これは仕事でも同じっすね。

締め切り直前に「この企画だけ完璧にしよう」と全員を投入すると、別案件が一気に火を噴く。

クリエイティブ系の仕事をしていると、この構図は笑えないくらい分かります。

『ナディア』の作画問題は、才能がなかったから生まれたというより、テレビアニメ制作の時間と人的資源の限界が画面へ露出した例として見るほうが本質に近いです。

そして皮肉なのが、その一方で重要エピソードには現在観ても唸るようなカットが残っていることです。

だから作品全体を平均点で語れない。

100点のカットと「大丈夫かこれ?」というカットが同じシリーズに共存している。

この異様な振れ幅こそ、『ナディア』というテレビアニメのおもしろさでもあります。

『ふしぎの海のナディア』がひどい理由

ここからは作画だけでなく、物語やキャラクターまで含めて、なぜひどいという印象を持たれやすいのかを見ていきます。

僕が重要だと思うのは、「欠点がある」と「作品そのものが失敗している」を同じ意味にしないことです。

『ナディア』は欠点を隠してくる作品ではありません。

むしろ欠点まで画面の中心に置いてくるから、好き嫌いがめちゃくちゃ分かれるんですよ。

島編はいらない?

島編はいらないのかと聞かれたら、僕の答えは「短くする余地はあるけど、丸ごとなくすのは違う」です。

ストーリーの進行だけを考えれば、確かに圧縮できる部分はあります。

物語の謎を追いたい人からすれば、早く本筋へ戻ってくれと思うはずです。

ネット上で「必要な話だけ観れば名作」といった反応が出るのも、この感覚でしょう。

でも島編を全部抜いてしまうと、ナディアとジャンがなぜ衝突するのか、二人がどう違う人間なのかが薄くなります。

大事件の最中は、人間って意外と単純な役割へ押し込まれるんですよ。

危険が迫っているなら逃げる、仲間が困っているなら助ける。

選択肢が少ないので、キャラクターの性格差はむしろ見えにくい。

一方、日常では「何を食べる」「誰の話を信じる」「相手の態度をどう受け取る」といった小さな選択が増えます。

そこでナディアとジャンの価値観の違いが爆発します。

だから脚本的には必要なんです。

ただ、必要なキャラクター描写と必要な話数は別問題です。

僕があえて苦言を呈するなら、同じ性格上の衝突を何度か別のシチュエーションで反復するため、配信で連続視聴すると「もう分かったって!」となる場面があります。

週1回放送なら一週間の空白があります。

でも今は次の話まで5秒です。

この視聴環境の変化が、島編の中だるみを当時以上に強く感じさせている面もありそうです。

初見なら島編も一度は観るのがおすすめです。

作画の荒れだけでなく、キャラクターの嫌なところまで描く作品なのだと分かると、後半の見え方が変わります。

ストーリー評価

『ふしぎの海のナディア』のストーリーは、かなり変な形をしています。

序盤だけを見ると、少年と少女が出会い、謎の宝石を巡って旅をする王道ボーイミーツガールです。

ところが物語が進むほど、科学文明、戦争、人間の支配欲、家族、アイデンティティといった話が侵入してきます。

このスケールアップの仕方が庵野秀明作品らしいんですよ。

最初は手の届く大きさだったドラマが、気付けば「人間とは何なのか」という領域まで膨張している。

後年の『新世紀エヴァンゲリオン』を知ってから観ると、「あ、この作家ずっと同じ場所を掘ってるな」と感じる瞬間が結構あります。

さらに映像演出がおもしろい。

危機的な場面になると、説明台詞を増やすより、機械の動作、警告音、計器、乗組員の短い掛け声を連続して見せます。

観客は設定を全部理解していなくても「何かものすごくまずいことが起きている」と分かる。

これは情報を台詞で理解させるのではなく、編集の速度と音で体に理解させる演出です。

戦艦や潜水艦の描写も、ただ巨大兵器を格好よく描くだけではありません。

砲撃までの手順や人間の配置を積み上げてから結果を見せるので、一発の重さが出る。

今のCGアニメならカメラをぐるぐる回して巨大感を出せますが、『ナディア』は限られたセル画と背景、美術、撮影処理で「でかいもの」を感じさせます。

一方で中盤以降のテンポには明確なムラがあります。

年間数百本観ている僕でも、初見の人へ「全39話ずっと同じ密度です」とは口が裂けても言えません。

そこはマジで違う。

でも、前半の冒険、中盤の停滞、終盤の加速まで含めると、異様に記憶へ残るんですよ。

均整の取れた優等生ではなく、床から天井まで振り切れるタイプの作品。

僕はそこを込みで名作だと思っています。

ナディアの性格

そして作画以上に人を選ぶ可能性があるのが、主人公ナディアの性格です。

ネット上でも「わがまま」「強情」「ジャンがかわいそう」といった反応がかなり出やすいキャラクターです。

ここは僕も、ぶっちゃけイラッとする場面があります笑。

ジャンがかなり前向きで、相手のために動ける性格なので、並べれば並べるほどナディアの頑固さが強調されるんですよ。

ただ、これはキャラクター設計の失敗ではないと思っています。

公式の人物紹介でも、ナディアは強気で素直になれない少女として設定されています。

つまり作品側も、万人から好かれるヒロインとして作っていません。

ここが今見るとむしろ新鮮です。

最近のアニメでは、主人公やヒロインがSNSで嫌われすぎないように、欠点をかわいい癖の範囲へ収める作品も少なくありません。

でもナディアは普通に面倒くさい。

理屈が通らないこともあるし、感情で判断するし、自分の価値観を他人に押し付けることもあります。

でも、それって現実の人間なんすよ。

僕らだって仕事や人間関係では「自分は論理的に判断しています」という顔をしながら、実際には昨日の嫌な出来事を引きずった状態で相手へ返事をしていたりします。

人間ってそんなに毎回正しくない。

ナディアの特徴は、その未熟さを脚本が甘やかしていないところです。

彼女が間違った態度を取れば、周囲との関係は普通に悪くなります。

そして視聴者にも「主人公だから好きになってください」と強制してこない。

僕はこの距離感が好きです。

キャラクターを愛することと、その行動を全部肯定することは別ですからね。

実際の友達だって、好きだけど「そこはお前が悪いやろ」と言いたくなる瞬間があります。

ナディアは好感度を維持するために設計されたヒロインではなく、矛盾や未熟さまで物語へ持ち込むタイプの主人公です。

なのでナディアの性格が無理なら、この作品自体がかなりきつく感じる可能性はあります。

逆に、その面倒くささを成長物語の材料として観られる人には、めちゃくちゃ人間臭いヒロインに見えるはずです。

最終回の評価

『ふしぎの海のナディア』は途中がひどいと言われる一方で、終盤から最終回については高く評価する声がかなり目立ちます。

僕もここは同意です。

重要なネタバレは避けますが、終盤は作品が序盤から積み上げてきたテーマと映像的なモチーフを一気に回収していきます。

島編で減速したぶんを取り返すように、物語の速度も急上昇します。

映像面で特に好きなのが、巨大なメカをただ動かすのではなく、発進や攻撃に至るまでの細かなプロセスを積み重ねるところです。

レバー、計器、視線、命令、返答、機械の駆動音。

これらを短いカットで連結してから大きな動きを見せるので、画面外に何百人もの人間が働いているような感覚が生まれます。

今の作品でいうCGによる大規模戦闘とは別方向の迫力です。

カメラそのものを大きく動かせないからこそ、編集と音響で巨大さを作る。

こういう演出は古いアニメを観る楽しさの一つっすね。

さらに鷺巣詩郎さんの音楽が強烈です。

感情を直接説明するのではなく、映像が持つスケールを一段押し上げる。

後年の庵野作品に通じる、音楽とモンタージュをぶつけて感情を増幅する感覚がすでにかなり見えます。

声優陣の演技も終盤になるほど効いてきます。

鷹森淑乃さん、日髙のり子さん、大塚明夫さん、清川元夢さんらの声が、キャラクターの立場や年齢差をかなり明確に作っています。

特に静かな台詞のあとへ長めの間を置く場面では、アニメーションが止まっていても感情は止まりません。

だから最終回だけを見ると派手な映像の連続に見えますが、本当に効いているのは39回かけて蓄積した人間関係です。

途中の粗さを完全に帳消しにするわけではないけれど、「ここまで観てよかった」と感じさせる到達点はきちんと用意されています。

個人的には、作品の評価を島編の数話だけで止めるのはかなりもったいないです。

むしろあの落差を通過したあとだからこそ、終盤の密度が異常なほど高く感じられる部分さえあります。

ナディアはひどい?

結論として、『ふしぎの海のナディア』にはひどいと言われても仕方がない部分があります。

特に島編周辺では作画のばらつきが目立ち、物語のテンポも前半とはかなり変わります。

ナディア自身も万人受けする主人公ではなく、わがままさや頑固さにイライラする人がいるのは自然です。

でも、それをもって作品全体がひどいと判断するのは違います。

前半の冒険活劇、中盤の人間臭いキャラクター描写、潜水艦や戦艦を使ったメカ演出、鷺巣詩郎さんの音楽、声優陣の芝居、そして終盤の映像密度。

全部を通して見ると、欠点と魅力がどちらも極端なんです。

  • 作画崩壊は島編周辺で目立つが全編ではない
  • 島編は中だるみする一方で人物描写には意味がある
  • ナディアの性格は意図的に未熟さまで描かれている
  • ストーリーは冒険活劇から壮大なSFへ発展する
  • 終盤と最終回は映像と音響の見せ場が濃い

僕が『ナディア』を観て改めて感じるのは、名作って必ずしも欠点のない作品ではないんだなということです。

むしろ欠点まで含めて「あの回やばかったよな」と30年以上語られ続けている時点で、とんでもなく生命力のある作品なんですよ。

毎クール大量のアニメが流れていく時代に生きるZ世代としては、これは結構刺さります。

映像がきれいで、構成も破綻せず、最後まで平均80点の作品は確かに観やすいです。

でも数年後に脳内へ残っているのは、必ずしもそういう作品だけじゃない。

「なんだったんだ、あれ」という異物まで含んだ作品のほうが、妙に記憶へ住み着くことがあります。

『ふしぎの海のナディア』は、整った名作ではなく、荒々しいまま名作になってしまったアニメです。

だから作画崩壊や島編が気になって検索してきた人には、そこで視聴を止める前に、ぜひ作品全体の振れ幅まで見届けてほしいっすね。

「ひどい」の先にある映像を見たとき、この作品が今も語られている理由がかなり腑に落ちると思います。

なお、放送・配信状況や商品情報は変更される場合があるため、最新かつ正確な情報は作品公式サイトや各配信サービスの公式ページをご確認ください。

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